多面的に、多次元的に

事象はすべて縁起だとすると、すべての事象はフラクタル構造の中にある。
つまり、ある側面では、主であり、ある側面では従である。
ある次元では主であるけれど、ある次元では従である。
といったように。
たぶん、同じ側面の中でも、陽で捉えるか、陰で捉えるかでも、主なのか、従なのかは変わるはず。
主と従という表現が良いのか、全と一という表現が良いのか、陰と陽という表現が良いのか、どの表現もきっと適切であり、適切でない。
言葉で示した時点で、根源に対して様々なものは失われていて、その言葉は本当のことを表していないから。

なにかを探究していくにあたって、
・主 - 従、全 - 一、陰 - 陽という関係性で見ていくこと
・多面が存在する前提で考えること
・多次元が存在する前提で考えること
というのを常に頭においておきたい。

多面とは、量子力学的な考えをリスペクトすると「観測者」という立場をどこに取るか?であり、どういった立場でものごとを捉えるか?ということで、立場を明確にすることが重要である。
多次元とは、どのようなベクトルの軸の中で見るか?ということだから、どういった層で捉えているか?どういった世界系で捉えているか?ということなのだと思う。

最近、才能や個性ということについて深く考えることが多い。
自分は、どっちかというと俯瞰的立場、構造的立場で見る癖があるから、才能や個性についてもそういった目線で考えるけれど、それは、気づくと、多面 or 多次元 どちらか一方でしか捉えていない。
自分も構造的立場に落とし込むときに、多面的な構造で捉えるか、多次元的な構造で捉えるか?どっちか一方しか、一回の構造化ではできないようだ。
そして一度構造化すると、その思考にとらわれるから、一度取った観測者としての視点を、固定した世界系を抜け出せなくなる。
正直、才能、個性については、多面的に見ている自覚があるけれど、多次元的には見れていないような気がする。
多次元的な才能、個性ってなんなんだ?ということにはまだ答えがないのが今だけれど、自身がいまそういった探究の中にいるということを書き残しておこう。

もうちょっと具体的に考えていることでいうと、「学習」ということについて才能、個性は以下の5側面でそれぞれ全然人によって違うように思われる。
・物事の捉え方
・情報、知識のインプットの仕方
・インプットから体験が起こるまでの過程
・自身に起こる体験の性質
・体験が起きた上での行動の仕方
一つ「学習」ということについても、こんな5側面でそれぞれ才能、個性が違うのだけれど、これは多分多面的には見れているけれど、多次元的には見れていない。
「学習」に対しての才能、個性を多次元的に見るとは?どういうことかが、
今の自身の中でのホットなテーマとなっている。

多次元的についての現時点での自分の仮説も書いてみようと思ったけれど、驚くくらい、なにもわかってない笑 なにも言葉が浮かんでこない。
もしかすると、学習について多次元的に捉えるというのは、言葉じゃない表現、体験、感覚、感性のことなのかもしれない。

本日も読んでくださりありがとうございます。感謝します。

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