子供の頃の痛々しい情熱は取り戻せるのか。

今日は子供の頃の痛々しい情熱は取り戻せるのか、ということについて書きます。

僕は小学五年生くらいの頃、政治問題とか社会に興味を持ちました。塾の先生の影響です。塾の先生というのは大概特定の政治思想を持っている方が多いので、子供だった僕はモロに影響を受けました。それは受験勉強というフェイズでは良く作用し僕の社会の成績はみるみる上がっていきました。ただ、算数とか理科はそれほどではなかったので「中の上」くらいの男子校に受かり僕はそこに入学することになりました。

その中学校は受験組の他に付属の小学校から上がってきた生徒も半分くらいおり、おまけに系列の大学までエスカレーターだったために学校全体の勉強熱はあまり盛り上がっていませんでした。思春期の学生が勉強をしないとなると、考えるのは異性のことばかりです。いかにモテるかがその学校の正義、みたいな風潮がありました。そんな中で社会問題にバリバリ興味あります、みたいなスタンスは死ぬほど浮きました。あまり言葉に出していたわけではないのですが「周囲となんとなく会わないな」みたいな態度が外に出ていたのでしょうか、結構エグいイジメもくらいました。そんなこんなで僕の社会に対する興味は減退していき、だんだん勉強もできなくなっていきました。

そこからは地獄でした。毎日「なんで生きてるんだろう。死にたいなー。」みたいな気持ちで15年近く生きてました。

20代後半になって趣味で落語を聞き始めました。落語家の中には「斜めに社会を切る」みたいなスタンスの人が少なくありません。ガチの政治的姿勢とかではなくて、もう少しラフなフワッとした社会問題との関わり方もあるんだなーと思いました。それを真似して会社とかで時事ネタでボケたりしたら少しウケたりもしました。僕は満足でした。

僕は今幸せです。かつての様に情熱を失った自分に落胆することもなく、程々に社会を生きています。

でも時々思います。あの子供の頃の痛々しい情熱を取り戻せたらなーと。主観的にはあのバリバリ思想が偏ってた頃の方が楽しかったなーと。今やろうとしても、どこか冷笑的な自分が邪魔をします。茶化そうとしてしまいます。
テレビで大谷みたいな情熱を持った人を見ると羨ましく思います。誰だって情熱を持って身を粉にして生きたい願望はあるんじゃないでしょうか。でもそれにリミッターをかける気恥ずかしさみたいなものは何故生まれてくるんでしょうか。それが大人になったということなんでしょうか。だったら「分別のある大人」より「気狂いじみた情熱を持った子供」の方が幸せだったんじゃないかとふと思う時があります。

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