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愛が文化をかなぐり捨てヒトは「鬼」に変容する


やさしさとは何か。

友人は長年夫のDVに苦しんでいた。
普段やさしいのに人が変わったようになる。
やがて夫に暴力以外の症状が現れ、
精神科で病気が見つかった。
五年の治療を経て寛解したとき医師に

「やっと本来のやさしい旦那さんが戻ってきましたね」

と言われて泣いたそうだ。

一部のDVは治療することができる。
あまり知られていないが。
それはさておき

やさしさとは何か。

私は、「愛」と「恋」と「やさしさ」について

という作品に衝撃を受けた。
コメディのテイストより、設定の切なさが胸に迫る。
私はそう感じた。

「鬼娘恋愛禁止令」の世界観

主人公は佐藤八郎という少年。
昼に起きて働いてる様子はない。
顔も体も傷だらけ、素行不良と見受けられる。

八郎の家には鹿恋という少女がいる。
事情は分からぬが居候である。
八郎にいじめられている。

だが、全部違う。

鹿恋は、鬼と人間との間に生まれた「半童子」、
鬼としての力をコントロールできない。
八郎は鹿恋が好きだから、彼女を止めるために毎夜戦っていた。

恋と愛

鹿恋の鬼が発動するのは
眠ったとき
誰かを好きだと思ったとき。

なぜだろう。

「恋」は本当は美しいものではなく、
執着、独占欲、自己愛、性欲、嫉妬、
そんな醜い感情に蓋をしているだけなのではないだろうか。

あなたの恋は、いつも美しかったか?
私は違う。

聖人ではない凡夫が「恋」を「愛」に昇華するには
「受容される」ことが必要なのだ。

そうでなければ恋は破壊衝動、
相手を引き裂くものにもなり得る。

愛することが美しいとは限らない

八郎は鹿恋の鬼が「好き」で目覚めると知っているから、
鹿恋に嫌われるよう振る舞う。

それは愛ではないのか。

だが、彼の秘めた恋の表現は肉欲的で、美しくない。生臭い。

やさしさにふれて!

「やさしさ」もそうだ。
この言葉を無意識に「美しいもの」と定義してはいないだろうか。
錯覚だ。

八郎は、鹿恋のために自分は憎まれる。
傷だらけで、鬼になった鹿恋と戦う。
鹿恋を殺そうとする者からは守る。
そして鹿恋に殺されかける。
引き裂かれてやっと彼女を抱きしめることができる。

その姿は、美しくない。
けれど、これが八郎の「やさしさ」でなくてなんだろうか?

ヒトは、ヒトの醜い部分を「鬼」として切り離す。
しかし、そこにも原初の「愛」はある。

「愛」が「やさしさ」が美しいのは文化がそれをオブラートに包んだにすぎない。
「鬼」は誰の中にもある。

この作品の、やさしさにふれて欲しい。





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