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231022-231029

「文学フリマ東京37」に出店いたします【P-14】

 お世話になっております。東京でバナナの研究をしているバナナ倶楽部と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 わたしたちは来たる11月11日(土)開催の「文学フリマ東京37」に出店いたします。ブースは【P-14】でございます。皆さん、奮ってご来場くださいませ。

 こちらのnoteでは、気を引き締めるという意味も込めて、文フリ当日までのわたしたちの活動記録を不定期の日記形式で投稿していければと思います、なんてふうに数週間前にいったものの、それから更新も途絶え……、気が付けば10月も終わりというところまで来てしまいました。
 まだ入稿できていないので、がんばります!

23/10/22

 午前中から早稲田松竹でシャンタル・アケルマンの二本立てを観て、出たころには昨日と同様にやはり夕方の空気になっていた。一本目の『ノー・ホーム・ムーヴィー』(二〇一五)は、アケルマンが実家に戻って高齢の母の看病をしつつ、それまであまりしてこなかった親密な会話を重ね、その日常を記録していくというドキュメンタリーで、ある種の法則に基づいて室内に設置されたカメラがその家に暮らすひとの日常を定点で映し取るという形式はやはり『ジャンヌ・ディエルマン』を思い起こさせたけど、『ジャンヌ・ディエルマン』が中年の専業主婦女性を映していたのに対してこちらは高齢女性なので、まずそれだけで動作ひとつひとつがまったく違うし、それにこちらには映されている対象(=母)への親密さ、気まずさ、あらゆる感情が記録されている印象があり、やはり劇映画とは異なる非常に私的な映画だと感じた。ともすればただのホームビデオになってしまいそうなところを、構図の美しさと編集、そしてなによりときおり挿し込まれる風景の長回しが映画たらしめる。映画冒頭で映されるのはどこか荒涼とした野原で強風にさらされ激しく揺れ続ける細い木の姿で、まずそれが(僕の体感で)五分続くのでウケる。しかしそれが冒頭にあることで映画全体のトーンが決定づけられていることは間違いなく、そのあとどんなに親密な会話が繰り広げられようとも、どことなく〝終わり〟へと向かっていることを感じさせられ、そして実際母娘の会話は次第に途切れがちになり、母が起き上がることも減り、映画は静かに終わる。そういう詩的効果のようなものを帯びた風景の長回しが何度か入って、その演出的効果に驚嘆しつつ、ひとつひとつの長さにウケていた。特に中盤の、車窓から荒野を映した長回しがほんとに長すぎて、思わず隣に座っていた同居人と顔を見合わせた。
 もう一本の『家からの手紙』(一九七六)は、ベルギーを離れて数年間滞在していたニューヨークの風景に、実家の母から届く手紙を朗読するアケルマンの声が被さるというインスタレーションみたいな作品で、『ジャンヌ・ディエルマン』をその前年に公開したアケルマンが「ウチ、今後もこういう感じでやっていくんで」と活動声明を出しているかのような長回しがひたすらに続く。この作品における長回しはほんとにあきれるほどに長くて、地下鉄のホームを映したシーン、ニューヨークの街並みを車のなかから映したシーンはいずれも間違いなく十分くらいあったと思う。最後、ニューヨークを離れる船の上から、遠ざかっていく摩天楼を映し続けるシーンも、これで終わりだろうなと思いながら見ていたら延々続いたのでウケた。いずれの作品もそういう長回し狂、車窓狂の側面を感じさせつつ、母娘のかなり私的な内容を描いた映画で、しかし私的で具体的なゆえに普遍性を獲得してもいて、疲れたけどかなりよかった。併映のデビュー短編『街をぶっ飛ばせ』は後の作品と比べるとかなりテンポがよく、粗削りではあるものの、台所に閉じ込められ、さらに自らを閉じ込めて最後にすべてを爆発させる女性の姿は確実に『ジャンヌ・ディエルマン』に繋がっており、そしてそれを抜きにしてもみずみずしさがあってよかった。
 早稲田松竹を出てから新宿で同居人の服を買い、そのあと同居人は友だちとの飲みに出かけ、僕は家に戻った。心地よい眠気が訪れていたが、今日文フリの原稿を進めないでどうするんだという局面だったので一念発起して家の外に出た。近所のカフェに入っていざパソコンを開くと充電がなく、あえなく通常の読書へ……。そのあと会社まで充電器を取りに行って、うどんを食べ、ネットカフェに入った。ネットカフェのブースは信じられないほど狭くて、あまり集中できず進まなかった。

23/10/25

 遠回しにではあるが、シャンタル・アケルマンが『家からの手紙』において発揮していたおそろしいほどの長回しの反商業主義っぷりにあらためて感嘆するようなことがあり、あの珍妙すぎる映画をなんともう一度観てみたい気持ちになってきている。僕の文フリの原稿もあんな感じでかっこよく進められればいいとも思う。ところで文フリの入稿だが、前回と同様のサービスを使って製本する場合、①今週末二十九日の夜までに入稿して文フリ一週間前の十一月三日に発送してもらうパターンか、②来週末五日の夜までに入稿して文フリ前日の十日に発送してもらい、十一日の当日に一か八か間に合わせるパターンが考えられ、①が安心安全だとは思いつつ、②のほうが書ける時間が増えてうれしい。いずれにせよ大詰めなのは間違いないが、仕事をしたり、仕事で軽率なミスをしたり、テレビを見てしまったり、散歩に心惹かれたりと、日常のあれやこれやによって時間がなくなっている。でもとりあえず今日は少し進められた。

23/10/27

 今日は早めに帰って原稿を進めようと思っていたが、案外遅くまで会社にいてしまい、ちょうど帰ろうかという頃合いに近所の友だちから
 散歩どう? てかドライブしない? 
 とLINEが来たため、それはおもしろそうだねということで帰らずに友だちと合流した。スカイツリーのほうまで行って、高いねえ、と連呼した。車内では僕がキャバクラや性風俗店やパチンコに行ったことないし行ってみたいとも思わないという話になり、不景気が生んだ悲しい青年だといわれてウケた。友だちも僕もべつに本気でそんなふうに思っているわけではないが、おもしろい表現なので今度から使っていきたいと思った。他には互いの仕事の話や僕の文フリの話になり、こういうのはとりあえず申し込んじゃうことが大切なんだよ、申し込んじゃったら書かざるを得ないからね、とさほど書いていないくせにえらそうに高説を垂れた。いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、ともいっていて、我ながらえらそうだった。そのあと、友だちと飲んでいた同居人が帰っているところにちょうど通りかかり、終電をなくしてうちに泊まろうとしていた同居人の友だちを家まで送るという運びになった。ひとつの文章のなかに僕の友だちと同居人の友だちが登場してしまいわかりにくくなってしまったが、ようするに僕、僕の友だち、同居人、同居人の友だちの四人でそのまま車に乗って、同居人の友だちを家まで送ったということだ。僕の友だちは結果的にかなり運転してくれたので非常にありがたかった。今日はけっきょく原稿が進まなかったが、たまにはこういう日があってもいい。こういう日が頻出するのはよくないが……

23/10/29

 いい気候の日だった。朝には雨が降っていたのがやがて上がり、涼しい秋晴れの日へと転じたのがうれしさを増した。日記によると、おとといの僕は友だちに向かって、いまは基本的に毎日文章を書いてるから身体が文章を書くモードになっていて、文フリが終わってからもこの感じをキープしたいと思ってんだよね、などとえらそうなことをいっていたそうだが、文フリの原稿を書き終える前にそのモードが弱火になってしまっているのを感じる。というか、もう入稿をぎりぎりまで伸ばすという決断をしたことでいったん気が緩んでいる。そんなときにはいっそ書かずに他のことをしたほうがいいのだが、今日はちょうど何週間も前に借りてから貸し出し延長を繰り返していた『愚か者同盟』の返却期限だったため、図書館に行って再貸し出しの手続きをし、ここ一週間くらい読み進められていなかったのをちょっとだけ読み進めた。相変わらずおもしろいのだが、しかし頭のどこかにはやはり原稿を書かなくちゃという気持ちもあり、大きくは読み進めずに閉じた。

皆様の寄稿をお待ちしております

 日記にも表れているように、原稿が進んでおりません。バナナ倶楽部では、皆様の寄稿をお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。


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