なぜ、テストでいい点を取りたいのか

 小・中学校の頃を思い返してみましょう。テストは好きでしたか?はい、と答える人は多くないでしょうね(笑)。テストで高得点を取れたときは、嬉しかったですか?こちらは、はいと答える人の方が多いでしょう。これは、どういうことでしょうか。

 テストの得点そのものは、正解数が多いか少ないかの違いが反映されただけの数字であり、 それが嬉しさや悲しさに直結するわけではありません。もっと言ってしまえば、テスト答案の内容は、赤い色の丸やバツ、そして記号です。色と形です。そして、テスト用紙はただの紙です。

 テストで高得点 → 嬉しいという一連の反応を見てみると、そこには、「テストの得点」と「嬉しい」を結びつける、見えない媒介が存在しているように思えます。

 それが、「思い込み」。そして、自分にどういう思い込みがあるか、容易にはわからない。今回のテーマは、この「思い込み」です。


 テストの話題に戻ります。テストで良い点を取ると、おそらく誰かが喜んでくれたことでしょう。

 テストで高得点 → (喜ばれるから)良いことという過程を繰り返す中で、テストで高得点を取ることが絶対的に、疑う余地もなく良いことなのだという「思い込み」が生まれ、考え方として定着していきますね。しかし、冒頭で述べたとおり、それは事実ではないのかもしれません。

 そして、このなんとも頼りない「思い込み」が、悪さをするときがあります。高得点が取れなかったときです。ここで、「高得点」/「低得点」という、対立するものが生まれます。この対立が、摩擦を生み、苦しみを作り出します。「自分はダメなやつだ」とか、「なんでもっと勉強しなかったんだ ... 」とか、失敗したときにそう思って苦しんだりします。

 一時的に、「よし、もっと勉強しよう!」などと決意をして立ち直ったりもしますが、up and down はその後繰り返されるでしょうか、そうではないでしょうか。

 元々はただの紙切れ、ただの色や形だったものに、気分を左右されるようになるんですね。そんな感じで思い通りにならないことを、思い通りにできるとまた「思い込ん」だりして、苦しい。これは、仏教で「苦」というところが指すものでもあります。

 いずれにせよ、これでは人生窮屈ですが、意外に窮屈であることにすらも気づいていないということがあります。だから、まず気付くんです。自分は今苦しいのだと(笑)。そこから、なんらかのアクションが、自然と生まれてくるはずです。

 良くクリシュナムルティが使っていた例えですが、足元に毒蛇がいることに気づいたら、誰だってそこから離れます。これと同じことです。「思い込んでいる」こと、それが苦しいこと、危険であることに気づいて、離れる、そうすると、自由になります。

 では、今回は実験というよりも問いかけといった感じですが、実験してみましょう。

1. 「自分は何を求めているのか」と自問する

2.  求めているもののどういう点が自分にとって良いのか、自問する

3. それを求めて得られなかったときのことを、細部までイメージする

4. それによってそんな身体感覚が湧き奢るのかを見てみる。

5. 1 〜 4を繰り返す。

 身体感覚を通じて、それが心地よいものなのか、心地よくないものなのか、というのがもしかしたらわかってくるかもしれません。試してみてください。

 さあ、実験だ。

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