見出し画像

いつかの私が救われますように


教室が一瞬にして静まり返った。体育の授業中である児童たちの声が際立って聞こえている。夏という季節に怒られることの嫌な点はこれだと思う。自分が悪いとしたら、その悪さをまざまざと痛感させてくるし、そうでないとしたら怒っている人の理不尽さを考えさせてくるから。

マグマのような怒りを乗せた視線を突き刺す担任。俯くクラスメイト。つい先刻まで言葉を交わしていた友人の、固唾を飲む音がした。

・・・

当時流行っていたヤンキードラマに、引いては輝いて見える「青春」を味わっている高校生活というものに憧れていた。ドラマの主人公っぽさにも目を輝かせていた。


口をついて出た言葉は、そのドラマで使われていた汚いものだったと思う。敬意なんてかけらもない、粗雑な一言。

正直なところ、あのときのことは自分の中で大いに記憶が改ざんされ、何と言ったか覚えてはいない。でも、こんなにも嫌な記憶として覚えているくらいには酷い言葉だったんだろう。

今でこそ創作の世界と現実の世界を見分ける力はあるし、言葉には気をつけている方だ。当時は高校生と関わる機会もなく、ドラマを観て登場人物たちの言葉遣いが悪いと捉えるにはまだ幼かった。表現の自由の中で許されたもので、社会生活の中では厳しく取り締まられるべきものであるなんて、思いもよらなかった。
言葉は荒くとも、性格はいい人ばかりだったのもある。ただ、いつかこんな学生生活を送るんだろうなあ、という淡い期待のような何かが私の胸を覆っていた。


おそらく、その後の授業は滞りなく行われたはずだ。覚えているのは、放課後に呼び出された図書室の匂い。本棚を照らす夕陽。そして、私を諭そうと真っ直ぐに見つめてくる担任の顔。
どんなことを言われたのか、私の中の何を正そうとされたのか、そんなことは何一つ覚えていない。学校でありがちな反省文はやはり書かされたような気がする。

言動で叱られたとき、テストの結果が返却されたとき、私たちは反省文(後者の場合には振り返り文)を書かされた。記していくのは、「ごめんなさい」「すみませんでした」「今度からは気をつけようと思います」「次は頑張ります」………

こんな言葉たちに、どんな意味があるのだろう。反省を求められた人が、必ず思い浮かべる文章。そこには私の意思も本音も、文字通りの意味さえない。紙の無駄遣いで無益な行為だと思いながらも、書く手は止めない。脳内の想いとは裏腹に、勝手に手が動いていく。

所詮、私はその程度の人間なのだろう。


・・・

私にはこういう、口を滑らせた経験がいくつかある。いくつも、ある。だからこそ、『コンビニ人間』を読むべきだった。

芥川賞を受賞されたのは2016年のことだから、すでに読んだ人もたくさんいると思う。でも、私はなんだか手に取ることが怖かったのだ。受賞のニュースでこの作品を知ったけれど、そのあらすじに見える主人公の無機質な性格に震えてしまったのだ。

36歳未婚女性、古倉恵子。
大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。
これまで彼氏なし。
オープン当初からスマイルマート日色駅前店で働き続け、
変わりゆくメンバーを見送りながら、店長は8人目だ。
日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、
清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、
毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。
仕事も家庭もある同窓生たちからどんなに不思議がられても、
完璧なマニュアルの存在するコンビニこそが、
私を世界の正常な「部品」にしてくれる――。

ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、
そんなコンビニ的生き方は
「恥ずかしくないのか」とつきつけられるが……。

文藝春秋『コンビニ人間』作品紹介より抜粋


コロナ禍で迎えた2度目のGWは、散歩・部屋の片付け・読書という誰もが思いつく「連休にやること」をやる時間に充てると決めた。そして、最近姉からkindleを譲り受けたというのもあって、ついにこの作品に手を出すことになる。



1時間と少しで読み終えたとき、「自我」というものに大きく揺さぶられた。

「普通」を疑うことの正義。
「普通」に染まるために、「自我」を閉じ込める残酷さ。
変化しない、させないことの心地よさと絶望感。
生まれおち、生きる意味。

哀しいかな、どんなに話し合っても分かり合えない人たちはいるし、話あわずとも理解し合うことが是とされる空気はある。でも、その正解を見つけることは困難で、正解を見つけたとしてもそれが自分の幸せとなるかは保証されない。

小学生の頃から繰り返してきた失敗により、できるだけ言葉には気をつけるようにしてきた。あるべき立ち位置を見極めて、冷静に「役割」を果たすよう努めてきた。そんな自分を、古倉恵子に見た。
彼女が周囲の人の服装や口調をマネすることで、その場で求められる人物となったように、方法は違えど同じ目的のために尽くしてきた。いつもそうだったわけではない、そういう時もあったのだ。

でも、そうせざるを得なかった場面において、私は私を失い、楽しいという感情は欠落した。反省してもいない反省文を書いたときが、まさにそうだ。虚無の終結点。


これからも、あらゆる現実に牙を剥きたくなることが確実にたくさんある。毎日垂れ流される情報に辟易し、疑問を抱き、理解し難い意見に頭を抱える。その全てに挙手をして発言したり批判したりする力は、ない。100%以上のやる気を動員することは、私にはむずかしい。

だからきっと、研いだ爪を隠し、「仕方ない」と諦めてしまうこともある。でも、それも私という人間なんだと思う。

諦めて逃げてしまった私が、いつか救われますように。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?