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ばなとわたしログ:病を抱える家族に寄り添うということ


ばなちゃんが肺がんと診断されて4ヶ月。病院の先生が言うこともネットに書かれていることも極めてシリアスだった。けれど、私は心のどこかでこの平和がずっと続くことを信じていた。だって、目の前にいるばなちゃんは変わらずぷりぷりと元気なのだ。1年半前に乳がんと言われた時のように、また、驚異的な復活をする可能性だってあると思っていた。

結果的に言えば、確かにばなちゃんは驚異的だった。家族写真が撮れた。お花見にも行けた。止まった呼吸も、名前を呼んだら戻ってきた。「耐えられないかも」と言われた病院までの徒歩6分の距離を生き抜いた。
ばなちゃんは、私たちが「お願いね」と半ば一方的に押し付けた約束をお利口に守り続けている。

けれど、今度は復活はしない。悪くなった症状が綺麗さっぱり消えることはない。日々、病気の影は濃くなっている。2日ほど前から、自力でご飯を食べるのが難しくなってしまった。食欲はあるが、苦しくて自主的に口に入れたり、噛んだりできないのだ。体は痩せ細り、ついに今まで使っていたSサイズのおむつじゃ大きすぎるようになってしまった。背中をなでると、背骨のゴツ、という感覚が指先にくっきり残る。酸素マスク無しでいられる時間は日に日に短くなっている。確実に、悪くなっている。

そして病気のばなちゃんとの時間が伸びれば伸びるほど、私の心も不安定になっていった。最初は耐えられたことが、うまく処理できなくなっていっている。
前は1〜3時間置きに起きるのだって平気だった。眠い目をこすりながらも、心に余裕を持ちながらばなちゃんをあやすことができた。インドアだからずっと家でも平気だなあ、なんて余裕顔だった。苦しそうなばなちゃんに対して「よしよし大丈夫」という気持ちを持って接することができた。認知症の症状で吠えても何食わぬ顔で抱っこし続けることができた。

でも、最近は夜起きるのがしんどくて仕方がない。なぜじっとしていてくれないんだろう?どうしたらいいんだろう?と考えてしまう。外を自由に歩けない日々がストレスだ。苦しそうなばなちゃんを見ると、あまりにも辛そうで安楽死という言葉がよぎる。昨日、飲み物をあげても食べ物をあげても抱き上げても吠えやまないばなちゃんを抱え、ついにワーンと泣いた。24にもなる女が一人、部屋の真ん中でばなちゃんを抱きつつ「どうしてあげればいいかわかってあげられない〜〜〜〜」とバカっぽく泣いた。そして考えるべきでないことが頭をよぎった。たぶん、単純に疲れていた。私だけ時間の流れから外されている気がした。冷静になってから、どこかのブログに書いてあった「愛犬の介護は戦いであり、非常に苦しいです」の意味はこういうことか、と1ヶ月遅れで理解した。

これを読んでいる人の中で、愛するペットの介護を(多分人間でも同じだけど)経験することになる人は少ないと思うけれど、覚えておいてほしいのが、家族を思いっきり愛するのと同時に、自分にも幸せをふりかけるという心がけが必要だということ。

人間、不思議と悪いことは重なるもので、介護とともに別の「嫌なこと」が己に降りかかる可能性は割と高い。仕事のミス?家族との不和?恋人との別れ?大切な物を無くした?外でうっかり犬のうんこを踏んだ?推しの舞台のチケット抽選が外れた?程度や幅は様々だけれど、なぜかそういうことが同時に起きてしまうのだ。しかも、疲れてネガティブモードなので、「ガーーーン」のダメージがより増幅しやすい。

人によって対処の方法は様々なんだろうけど、そのガーーン……放っておくと確実に潰れる。というか愛する家族との時間を大切にできなくなってしまう。そんなの最悪だ。こんなに大好きなのに、嫌な気持ちを持ってしまうことほど切ないことはない。体験者から言わせていただくと「後味最悪ゲロまず」なので是非みなさまには回避していただきたい。

ふりかける幸せはなんだっていいのだ。
推しのグッズを買うだとか、いつもはカロリーを気にして食べない激甘スイーツを食べるだとか、マニキュアを塗ってみるだとか、白玉を作ってみるだとか、時間をかけてリッチにコーヒーを淹れてみるだとか、友達に電話をかけるだとか。あ、女性ならメイクもいいかもしれないな。一週間ほど前に「疲れた…まぢ無理…ぴえん」状態だったのだが、仕事でWEB動画を撮らなければならず、久々にメイクをした。鏡に映る私は残念ながら目が覚めるような美女でもなんでもなかったが、それでもちょっぴり「今日の私、いいじゃないか」と笑うことができた。
ちなみにマニキュアと白玉は今日私がしたことだ。疲れ自体は追いやることはできないが、その上にパラパラと「幸せ」がふりかかっている感じ。春の気まぐれ介護の疲れ添え、シェフ特製幸せ風味。

さっき、10日ぶりに外に出た。
外の風はなまぬるくて、私が好きな肌寒い春の夜は、知らないうちにどこかに行ってしまったようだ。ちょっぴり悲しい気持ちにもなったが、ほんの20分程度の慣れた道を歩くだけで、苦しみや疲れに、またほんのり幸せがふりかかった。

明日も、そして明後日も。ばなちゃんが頑張ってくれる限り、私と母ヨーコの介護は続く。今まで留守番ばっかりさせて、一緒に過ごす時間をおざなりにしていた私たちへの、ばなちゃんが与えてくれた時間だ。それを辛いものにしないために、明日も私は幸せ探しをするのである。












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