見出し画像

優しさを受け取れる自分でありたい。

だれかのくれる優しさって、優しさとして受け取れる自分でいないと、気づくことができない。

世界が優しくないように感じるときは、どこかに優しさをさがしに行くのではなくて、自分の内側を見つめた方がいいんだろうな。

優しさを受け取れない自分になっていないか。相手のくれた優しさを、受け取るときに優しさ以外のなにかに塗り替えていないか。

***

だれかのくれる優しさって、自分のほしい形をしているとは限らない。

たとえば、自分にとってふつうだと思っていたことに対して、「それはこんな風に変えた方がいいよ」って言われたとき。話し方や、仕事の段取り、とかね。

よけいなお世話だとか、他の人だってやっているのにとか思って、素直に受け取れずに相手を煩わしく感じてしまうかもしれない。

でもたぶんこのときって、「アドバイスしてくれた」という点だけを見て、ありがたいなって優しさとして受け取ったらいいんだと思う。

その内容はひとまず置いておいて。

***

たとえば、いつもは自分がやっていることを、相手がちがうやり方でやっていたり、やったけれど抜け漏れがあったとき。洗濯物のたたみ方、料理の後片付けみたいなこと。

いつも見ているのになんでちがうやり方でやるんだろうとか、中途半端にやらないでほしいとか思って、苛ついてしまうかもしれない。

でもそれって、なんとか手伝おうとしてくれた優しさなんじゃないだろうか。

そのときはよけいに手間が増えたとしても、相手には「ありがとう」で良いと思う。

やり方なんてちがっても問題なかったりするし、何度もやっているうちに漏れなくできるようになるかもしれない。

***

優しさを受け取れずに、自分でちがう良くないなにかに変換してばかりいたら、優しさをあげようって思う人はいなくなっちゃう。

だって、受け取ってくれない人より、受け取ってくれる人に渡したいって思うものだろうから。逆に言えば、受け取り上手だったら、もっとあげたいって思うかもしれない。

それに極端な話、相手がくれたときは優しさじゃなかったものを、自分のところで優しさに変換して受け取ってもいいと思うんだ。

自分にとってそれが優しさなら、それで良いだろうから。大事なのは、受け取れる自分でいることだから。

#エッセイ #毎日note #毎日投稿


最後まで読んでくれて、ありがとうございました( ˊᵕˋ* ) よかったら、また読みに来てください!