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決意。

約20年前、卒業旅行でジョージア🇬🇪(旧グルジア)へ友人に会いにいった。


たった数日間だったけど、日本人2人をたくさんもてなしてくれた。


ヒンカリ、ハチャプリ等々グルジア名物料理を堪能し、ワインやビールを飲む。


友人や家族でもてなしてくれる。


友人の家に泊まらせてもらう。

友人のおばあちゃんの家にも遊びにいった。


外観が非常に古いアパート。エレベーターもガタガタ、ところどころ朽ちたエレベーター。

(おいおい、大丈夫か??)

と内心ドキドキしながら上へ上がっていく。

そうしておばあちゃん家にお邪魔するのだが、外観とは違って、田舎のおばあちゃん家みたいなとても温かい雰囲気の家でした。

言葉は全く通じないから友人経由で会話する。お互い言葉は通じないけど、おもてなしは伝わる。


紅茶とお菓子をいただく。

紅茶にジャムを入れるロシア式紅茶をその時に初めて体験した。

ストレートな紅茶が好きだったけど、試しに飲んでみたらほんのり甘くて美味しかった。

日本から離れた地でジョージア人の家族と一緒に過ごす幸せ。


ちょっとした昔の日本のような感じだった。
懐かしいような、お節介にも感じられるようなお世話が、くすぐったくもあり、じんわりくる感じだったり。


友人達とトビリシ観光へ。
ちょっとしたトビリシを見渡せる様な小高い丘?山?に上り一望する。


まさか、あのトビリシが、ジョージアが近代的に発展しているとは思いも寄らなかった。

テレビで映ったジョージアを見て驚いた。


温泉にも入り、お客はうちら2人だけだったけど、(もしかしたら特別個室を用意してくれたのかもしれない)
2人で浸かりながら、卒業旅行で疲れた体を癒した。


外国にいるのに、日本にいるみたいな場所だなと感じる国でした。


ご飯も美味しい(口に合う)、気候も3月だったけど、寒すぎず、景色も首都なのに周りは山に囲まれていた、ザ異国という感じがしなかった。

もちろん文字や言葉なんて記号みたいだし、読めないし、喋れないけど、でも、感覚でいうと、アジアっぽさも少し感じた。

もしかしたら、顔立ちがヨーロッパぽくもあり、アジアぽくもあるからかもしれない。


友人は美人だった。

友人の妹2人も美人だった。


ドイツ留学中知り合った、別のジョージア人もモデル並みの体型と顔立ちだった。


美しい人が多いと感じた国だった。



私は「美人」が好きだ笑


美しい顔を見るのが好き。


だから、この国の顔立ちが好き。



夜はトビリシで流行っているディスコへ(クラブ)
ラジオ局にも見学にいった。


当時有名なラジオDJらしい人に挨拶をして写真を撮ってもらった。


もちろん私たちにはキャーキャーテンション上がるわけでもなく笑


ラジオ局に入ったことが無かったからそれに感動していた。


友人の友人は医学生で、ドイツ語を勉強していたので少し会話ができた。

といっても私のドイツ語のクオリティが低くお互いカタコト。


ディスコに行った時、お酒飲むとトイレが近くなる私は、何度も何度もいくから、医学生に、「病気なんじゃない??」と言われ、滞在中気にするようになった。


でも未だにアルコール摂るとトイレ近い。そして腎臓の病気でひっかかったことは無かった。


20年以上経つけど未だに。


友人の妹達は、私の顔を見てホクロを数え始めた。
「1、2、3、4、5、、、、、」


ストップ!!!!
これ以上数えるな!!!と言った。


日本ではホクロを数えると数えた分だけ増えるんだ!!と伝えた。

ちなみに私と一緒に行った日本人の友達は、肌がツルツルで、「日本人は肌が綺麗なのね」と褒めていた。



私と友達を比べて笑っていた。


私はホクロが多い。


まさか、ホクロが珍しいのか、多くてビックリしたのか、妹達は小さいながらに、悪意はない。でもホクロで遊ばれるとは思わなかった。



そんな感じで数日間を一緒に過ごし、おもてなししてもらい、ドイツ留学中にもお世話になった。

年齢も1つ違いの年下だったけど、彼女の方がしっかりしてて、いつも、私に「これやったの?」「あれやったの?」とまるでお母さんのような、お姉ちゃんのような、2人で恋愛話や、家族の話や、国は違えど、言葉を超えた関係があるんだなと思えた人でした。


だから、私はジョージアを離れる時、離れ離れになることが寂しくて悲しくてタクシーの中で泣いた。


彼女は「何故泣くの?」と聞く。


「だって悲しいから」と答えたら、



「生きていればきっとまた会える。これは悲しいことではないよ、だからお別れだけど、笑ってバイバイなんだよ」

と言った。



私は人と別れる時、淋しい、悲しいといって泣く。涙が出る。


でも、

「生きていればまた会えるから」

と言った。



だから、私は涙を拭いて笑顔でバイバイした。



そのあとお互いやり取りをすることなく、自分の生活を過ごした。



数年後、2008年の紛争を知って、久々に連絡してみた。
手紙も送った。


でも彼女からの返事はなかった。


きっと数年経ち環境が変わり、(卒業旅行後当時付き合っていた彼と結婚したことは聞いた)
元気に生きているはず。



だから、私はいつかジョージアに会いに行きたいと私の家族を連れて行きたいと思っていた。



それが、最近子連れでジョージアへ移住している人を見て、私も行こうになった。


友人に会いに行こうになった。



連絡は取れないけど、
住所も変わっているかもしれないけど、Facebookで検索したけど(似た名前がたくさん出る)、それでも私は彼女に会えると思っている。



もしかしたら、拒否されるかもしれないし、怒ってるかもしれないし、覚えてないかもしれないし、何かあったかもしれない。


でも、「生きていればまた会えるから!」を信じて私は家族と一緒に会いに行くんだ。


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