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4. ディジュリドゥの歴史2 - ディジュリドゥとシロアリ 前編

1900年代初頭まではディジュリドゥの素材として竹が中心的に使われてきたことは前章で述べました。では一体なぜ現在では竹で作ったディジュリドゥが使われなくなったのか?竹に代わってシロアリが食べて空洞になったユーカリの木が素材として好まれるようになったのか?その理由を研究した論文が見つからなかったので、主に個人的な推論を中心に考察してみたいと思います。


スラウェシ島の漁民マカッサンとの交流がアボリジナルにもたらしたものは?

1600-1700年代頃になると当時催淫効果があると考えられていて中国で需要が高かったナマコを採集するためにインドネシアのスラウェシ島の漁民マカッサンがKimberleyやArnhem Landの北部を訪れるようになり、1907年までその交流は続きます。

[Macassans at Victoria, Port Essington by HS Melville]ノーザンテリトリー州の最北端コボーグ半島にあるEssington湾にあるヴィクトリア開拓地を描いた絵(オーストラリア国立博物館所蔵)。ナマコを乾燥処理するマカッサンとアボリジナルが描かれています。

マカッサンはオーストラリア北部のアボリジナルの人々と協力しあって、ナマコを集めて煮て乾燥させて持ち帰り、中国へと運んでいました。マカッサンとの交流では様々な物や文化がアボリジナルの人々にもたらされました。船の帆や旗(garrurru)、トランプ(gaat)、煙草(ngarali)とパイプ(lunginy)、ナイフ(yiki)や斧(dakul)などの鉄製品がもたらされたと言われています(カッコ内はヨォルング語)。ヨォルングの言葉でお金を意味する「rrupia」という言葉もマカッサンからもたらされました。

[ナイフをかまえたダンサーたち]北東アーネム・ランドのDhalwanguクランにはマカッサンから伝わるナイフ(yiki)ソングが今でも歌いつがれています。Gurrumuru - Dhalwangu clan / The Mulka Manikay Arhives

この時、マカッサンが来るまで石器中心だったアボリジナルのハンドツールに大きな変化が生まれたと考えられます。ナイフや斧といった鉄のハンドツールの登場により、はるか遠いBanbusa Arnhemicaの自生地から交流によってもたらされる竹を待たずとも、身近なユーカリの木からディジュリドゥを作ることが可能になったとも考えられます。そして竹のディジュリドゥが作られることは徐々に減少し、シロアリが食べて空洞ができたユーカリの木が積極的にディジュリドゥの素材として使われるようになったんじゃないかと推測されます。

[アボリジナルの石斧]Rittharngu言語グループのSimon Ashley作。現代の作品ですが、石と持ち手の接合部分にはシュガーバグの蜜蝋が使われ、ヒモでしっかりと結ばれていて、かつてはこのような石斧が手道具として使われていたと考えられます。


中編へ続く

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