3. ディジュリドゥの歴史1 - ディジュリドゥの起源と竹 後編
トップエンドの竹は1種類、しかも北西部の限られたエリアに自生
オーストラリアの竹には3つの固有種があり、内二つはトップエンドには生えておらず、「Bambusa Arnhemica」だけが自生してます。この「Bambusa Arnhemica」がディジュリドゥの素材として使われていました。
まとめると、Thompson、Berndt、Moyleら民俗学者たちのフィールドワークにより、1800年代まではディジュリドゥを作る素材として竹が中心的に使われていたと考えられます。そして、その竹「Banbusa Arnhemica」はごく限られた地域にのみ自生していて、東はアーネム・ランドの東端、西はKimberleyまでディジュリドゥ以外にも様々な生活道具を作るための材料として交易されていました。
Hogarthの興味深い指摘は「Bambuという用語は近年マカッサンからの借入語なのか?」という類推です。マカッサンは1600-1700年代頃にトップエンドの沿岸部を訪れるようになったインドネシアのスラウェシ島の漁民です。ナマコ漁のために船に乗って訪れ、現地のアボリジナルと物質的・文化的に交易していたと言われています。
実際、トップエンド全域で共通してディジュリドゥのことを「Bambu」と呼び、この「Bambu」というスペルはインドネシア語で竹を意味する言葉なんです。この一致はかつてディジュリドゥは竹で作られていたということを強く示唆する事実なんじゃないかと感じます。
竹ははるか遠くまで交易され、ディジュリドゥは広域に伝播した?
さらに、1896年と1912年にオーストラリア北部と中央部をリサーチしたドイツ人の民俗学者Erchard Eylmann(1860-1926)の書籍「Die Eingeborenen der Kolonie Sudaustralien(英訳The natives of the colony of south Australia」にも竹のディジュリドゥに関する記述があります。
1896/1912年にEylmannがディジュリドゥについてリサーチしたのはWarumunguと呼ばれるグループで、Darwinから南に約1,000km、Alice Springsから北へ約500kmに位置するTenant Creek付近での研究と考えられています。Tenant CreekはBambusa arnhemicaの自生地から直線距離にして約800km南南東になります。これはThomsonやTindaleが記述した「竹が広域に渡って交易されていた」ということをさらに明確にする情報です。
また、竹のサイズや作られ方、マウスピースについても詳細に述べられていて「1800年代のノーザンテリトリー州の北部集団ではディジュリドゥに使われる素材は竹が中心だった」ということを後押しする記述です。
このように民俗学者のリサーチをふまえて考えれば、ディジュリドゥはBanbusa Arnhemicaの自生地域を中心に発生し、その周辺に交易によって伝播したと考えるのが自然なように感じます。そして、竹の交易と竹を使ったディジュリドゥ作りの歴史は1900年代初頭までは続いていたということが、研究者たちのフィールド研究で確かめられています。興味深いことに、その時期はマカッサンとの交易が途絶えた頃と重なっているようです。
ここではいつから竹のディジュリドゥが作られなくなり、どうやって シロアリが食べたユーカリの木が素材として主流になっていったのか…..。文化人類学や民俗学でも取り上げられることのなかった疑問について、次章「4. ディジュリドゥとシロアリ」で推論を中心に考察してみたいと思います。
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