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3. ディジュリドゥの歴史1 - ディジュリドゥの起源と竹 後編

トップエンドの竹は1種類、しかも北西部の限られたエリアに自生

オーストラリアの竹には3つの固有種があり、内二つはトップエンドには生えておらず、「Bambusa Arnhemica」だけが自生してます。この「Bambusa Arnhemica」がディジュリドゥの素材として使われていました。

Banbusa Arnhemicaは熱帯モンスーン気候で年間降雨量1200-1800mmになるノーザンテリトリー州の中でも北西部、西はDaly川流域から東はSouth Alligator川流域にだけ自生しています(Hogarth)。

オーストラリア北部のアボリジナルの人々は、この竹をディジュリドゥ、槍の柄、煙草のパイプ、いかだ、水を運ぶ容器など、数千年に渡って使ってきたと考えられている(Berndt,Tindale, etc)。

Banbusa Arnhemicaがアーネム・ランドやはるか西オーストラリア州のKimberley地域まで広域に渡って交易されていたということを証明する複数のリサーチがある(Berndt, Thomson)。たとえば、東アーネム・ランドの沿岸部のCaledon Bayの人々は、戦闘のための槍を竹で作るのに精通していたとTindaleは記述している(1925年)。Caledon Bayはこの竹の自生地から約420km東に位置する。

研究によると初期のディジュリドゥの多くは竹で作られていた。そして「Bamboo」という言葉の異綴語がディジュリドゥを差す共通語としてアボリジナルの部族の中で使われており(Moyle 1981)、当初ディジュリドゥは竹で作られていたことを示唆している。

たとえばAdelaide River地域のアボリジナルWarrayの人々は、ディジュリドゥを意味する言葉として「Bambu」を用い、別の部族では「Bomobo」、「Kambu」、「Pampuu」という言葉が使われる事例もあります。このことは、「Bambuという言葉はどこから来たのか?」とか、「アボリジナルのある集団がどうやってBambuの当て字を使うようになったのか?」あるいは「Bambuという用語は近年マカッサンからの借入語なのか?」といったここでの研究範囲を超える未解決で興味深い疑問が立ち上がる。

Nicholas John Hogarth / Demography and Management of Top End Bamboo, Bambusa arnhemica(2006)

まとめると、Thompson、Berndt、Moyleら民俗学者たちのフィールドワークにより、1800年代まではディジュリドゥを作る素材として竹が中心的に使われていたと考えられます。そして、その竹「Banbusa Arnhemica」はごく限られた地域にのみ自生していて、東はアーネム・ランドの東端、西はKimberleyまでディジュリドゥ以外にも様々な生活道具を作るための材料として交易されていました。

[Bambusa Arnhemicaの自生地マップ]地図上の緑の部分が実際の自生地です。竹の分布がすべて川沿いであることがわかります。黄色のぼやけた丸い部分がおおまかな竹の自生地を表しています。Kimberleyはこの地図よりはるか西の西オーストラリア州北東に位置します。竹の移動は文献から知ることができた3例だけですが、実際には多岐に渡っていたと考えられます。

Hogarthの興味深い指摘は「Bambuという用語は近年マカッサンからの借入語なのか?」という類推です。マカッサンは1600-1700年代頃にトップエンドの沿岸部を訪れるようになったインドネシアのスラウェシ島の漁民です。ナマコ漁のために船に乗って訪れ、現地のアボリジナルと物質的・文化的に交易していたと言われています。

実際、トップエンド全域で共通してディジュリドゥのことを「Bambu」と呼び、この「Bambu」というスペルはインドネシア語で竹を意味する言葉なんです。この一致はかつてディジュリドゥは竹で作られていたということを強く示唆する事実なんじゃないかと感じます。


竹ははるか遠くまで交易され、ディジュリドゥは広域に伝播した?

さらに、1896年と1912年にオーストラリア北部と中央部をリサーチしたドイツ人の民俗学者Erchard Eylmann(1860-1926)の書籍「Die Eingeborenen der Kolonie Sudaustralien(英訳The natives of the colony of south Australia」にも竹のディジュリドゥに関する記述があります。

成長した竹の下の部分から竹のトランペットは作られるので、一方(ボトム側)は分厚くなります。平均的に1.25mの長さで中央部はわずかに分厚く、親指と人差し指で完全につかむことができない太さです。竹の節は抜かれます。特別なマウスピースが付けられることもあり、小さい竹のパーツがメインの竹に挿入されます(Table XXIV, Fig.5)。接合部分は蜜蝋で覆ってシールされます。そして絵画や彫刻で装飾が施されます。次の章で重要な事実を述べますが、その竹のトランペットは、その竹が育つオーストラリア北部でだけ作られます。

Hubel 1994:29 translating Elymann 1908:3766
[Elymannのディジュリドゥのスケッチ]マウスピースのサイズを小さくするために細い竹が太い竹にジョイントされ、接合部分にはボッテリと蜜蝋が付けられています。「平均的に1.25mの長さ」と記述されていて、このスケッチの楽器以外にも竹のディジュリドゥを複数確認しているようです。

1896/1912年にEylmannがディジュリドゥについてリサーチしたのはWarumunguと呼ばれるグループで、Darwinから南に約1,000km、Alice Springsから北へ約500kmに位置するTenant Creek付近での研究と考えられています。Tenant CreekはBambusa arnhemicaの自生地から直線距離にして約800km南南東になります。これはThomsonやTindaleが記述した「竹が広域に渡って交易されていた」ということをさらに明確にする情報です。

また、竹のサイズや作られ方、マウスピースについても詳細に述べられていて「1800年代のノーザンテリトリー州の北部集団ではディジュリドゥに使われる素材は竹が中心だった」ということを後押しする記述です。

このように民俗学者のリサーチをふまえて考えれば、ディジュリドゥはBanbusa Arnhemicaの自生地域を中心に発生し、その周辺に交易によって伝播したと考えるのが自然なように感じます。そして、竹の交易と竹を使ったディジュリドゥ作りの歴史は1900年代初頭までは続いていたということが、研究者たちのフィールド研究で確かめられています。興味深いことに、その時期はマカッサンとの交易が途絶えた頃と重なっているようです。

ここではいつから竹のディジュリドゥが作られなくなり、どうやって シロアリが食べたユーカリの木が素材として主流になっていったのか…..。文化人類学や民俗学でも取り上げられることのなかった疑問について、次章「4. ディジュリドゥとシロアリ」で推論を中心に考察してみたいと思います。

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