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理想の城

 九月二十七日。昼には二十五度まで気温が上がった。東京はまだ夏である。

 オフィスでは空調が寒いくらいだったが、十七時に仕事が終わって外へ出ると、まだほんのり暑く感じた。
 長袖のシャツを腕まくりしながら、駅への道を歩く。金曜の夜だからか、道行く人々の足取りは軽かった。駅前広場の中央にはよくわからないオブジェが鎮座しており、そこで待ち合わせでもしているのか、たくさんの人がたむろしていた。広場の隅には交番がある。交番の前では一人の警官がおもしろくなさそうな表情で広場を見渡していた。

 僕は交番の横にあるベンチに座った。ベンチは六人くらい座れそうなのに僕の他には誰も座っていない。交番の横はなんとなく気まずいからだろうか。

 広場には三種類の人間がいる。家路を急ぎただ通りすぎるだけの人間、オブジェの周りで誰かを待つ人間、そして僕のように何をするでもなく時間を、というか自分自身を持てあましている人間だ。
 広場を囲むように建つ雑居ビルやオフィスビルの向こうに夕日が沈んでいった。交番の前にいた警官が交番の中に入った。また別の警官が出てきて、ちらりと僕を見た。僕は会釈をして、立ち上がり、駅に向かった。

 帰宅ラッシュで、駅のホームは人がごった返していた。
 知らない人達。大量の人達。
 人波に流されるように歩いていると、『僕はここでなにをしているのだろう? なんでここにいるのだろう?』という疑問が頭によぎった。この疑問は昔からたびたび湧き上がってくるのだが、さっぱりわからないまま三十歳になってしまった。親からも『リョウスケ、あんた何考えてるのかさっぱりわからないよ』と言われたことがある。それはそうだろう、自分でもよくわかっていないのだから。

 仕事は可もなく不可もなく。同僚と比較すれば、わりと真面目に働いているほうだと思う。たまに残業することもあるが、基本的に忙しくはない。彼女はいないし友達もいないが、社会人というのはそんなものだろうと思っている。会社の人間関係も悪くはない。面倒くさい人もちらほらといるが、やはりそんなものだろうと思っているので耐えられる。

 何もかも悪くない。なのに、最近『もう人生を終わらせてもいいんじゃないか?』という考えに支配されている。病院に行くほど深刻なものでもないけれど、毎日、死について考えてしまうのだ。

 列に並んで電車を待つ僕の目の前を、けたたましい音をまき散らしながら急行電車が通り過ぎていった。恐ろしい。さすがに今すぐこれに飛び込む勇気はなかった。

 二分待って、各駅停車の電車に乗った。
 うまく車両の真ん中あたりに潜りこんだが、他人との間隔が二センチしかない。少しゆれるだけで男も女も関係なしに触れ合うことになる。
 順調に進みだした電車の中で、黒い窓ガラスにうつる自分の顔を見つめた。ぼんやりとした顔は何かを求めているように見えた。強いていうならば、救いだろうか。

 救われたい、と考えたところで、僕を救ってくれそうな人は誰もいなかった。両親はもうこの世にいない。もっとも、生きていたとして彼らに助けを求めるつもりはないが。

 同僚や学生時代の友人の中に、親しい付き合いをしている者はいない。
 自分で自分を救うしかないのだ。

 数分後、ある駅で電車が止まり、新しい客が乗って来た。いつもならすぐに閉まるはずのドアがなかなか閉まらない。待っていると、車内にアナウンスの声が響いた。

『えー、只今この先の〇〇駅にて人身事故が発生しました。そのため当列車、運転を見合わせております。えー、運転再開時刻は現時点で未定となっております。ご乗車中のお客様には大変ご迷惑をおかけします』

 乗客のため息や文句が一斉に漏れ始めた。
 僕も鼻から音のないため息を漏らした。僕が降りる予定の駅はまだまだ先だった。さすがにこの満員電車の中で突っ立ったまま待ち続ける気にはなれなかった。

 数人の乗客が降りていく流れに乗って僕も電車を抜け出し、そのままホームベンチに座った。
 金曜の夜に死ぬとはどういう考えだろう。月曜の朝は人身事故が多いし、僕としても一週間で一番憂鬱なので理解できる。しかし金曜の夜とは。今週の仕事だけはやりきってから死のうと考えるような責任感の強い人だったのだろうか。

 十分ほど駅構内に流れるアナウンスを聞きながら待ってみたが、いまだに運転再開時間は未定と連呼している。このまま一時間も二時間もここで電車を待ち続けて貴重な金曜の夜を潰すのは嫌だった。無駄に消耗し、明日からの貴重な土日を疲弊した身心ですごすのは嫌だった。

 その後、また十分ほどうだうだと悩んだあげく、僕が出した結論は『どうせ家に帰ることができないのなら、いっそこのまま知らない夜の街を散歩しよう』というものだった。
 知らない駅の構内で迷いながらも、とりあえずトイレに入って用を足し、手を洗いながら鏡を見る。ただ伸びただけのバランスの崩れた黒髪が気に食わない。著しい寝不足というわけでもないのにいつの間にか消えなくなっていた目の下の隈が汚い。朝に剃ったにも関わらず青くなり始めた髭も不細工なものだった。

 改札を出て、周りを見渡すも当然知らない場所だった。一度も降りたことがない小さな駅である。まわりに何があるのか見当もつかなかった。散歩をするにしても何か目的地を決めたかったが、すぐには思いつかない。

 ひとまず駅の北へ向かうか南へ向かうか。繁華街を歩く気分ではなかったので、より栄えていなさそうな南口に歩みを進めた。
 南口から出てすぐのスーパーマーケットで缶ビールを四本買った。店を出てすぐに一本目のビールを半分ほど一気飲みした。

「ああああぁ……いいね」

 思わず声が出てしまい、近くにいた女性がこちらを見た気がしたけれど、どうでもよかった。
 エンジンがかかってきたなと思いながら、また先程の問題に立ち戻ることにした。どこを目的地にするかだ。僕は深いため息を一つつき、上を見た。星の綺麗な夜だった。いい夜だ。自然と『死ぬにはいい夜だ』という考えが沸き起こった。

「うん、いいね」

 もし今夜死ぬとしたら、どこで死ぬのがいいだろうか。
 死ぬにはいい場所。それを探すための散歩にしよう。僕はそう決めたのだった。酔った勢いであることは否定できない。

 またしても駅前に存在する謎のオブジェ――犬を脇にかかえた子供――を眺めながら一本目のビールを飲み干した。
 地図を見る限り、住宅街を抜けたところに大きな道が通っているようだった。ひとまずその大きな道を目指すことにした。

 住宅街では時々人とすれ違うことはあるが、静かなもので、どこからか夕食の匂いや風呂の匂いなどが漂ってきていた。それらが余計に僕の孤独を浮彫にしていたものの、酔いがそれをやわらげてくれているような気がした。

 二本目の缶ビールを開けてますます足取りは軽くなる。だんだんと車の音が遠くから聞こえ始めた。見ると、住宅街の切れ目に、不規則なリズムで車のヘッドライトが通りすぎるのを確認できた。
 家々の密集領域から抜けると、視界が開けた。通り抜けて来た道と垂直に交わるようにして、四車線の大きな道が右にも左にも遥かかなたまで続いていた。左に向かうことにした。

 僕はその大きな道に沿って歩いた。僕の右側を追い抜くようにして車が通りすぎていく。左側には途切れ途切れに民家がたち並び、その間は畑だったり小さな店があったりした。
 少し酔った頭で、『今夜、死ぬのか?』『死ぬにはいい場所って、どんな所だろう?』とまとまらない考えをかき混ぜながら、歩きに歩いた。

 そもそも本当に今すぐ死にたいわけではない。ただ、なんとなく死という存在が、その観念が、頭にこびりついて離れないだけだ。この散歩の末にそれをどうにかしたいと考えた。

 さすがに足が疲れてきた。酔いも少しさめて冷静になってきている。
 大きな橋に差し掛かった。橋の下を覗くと黒い川のような高速道路がどこまでも伸びていた。黒い川の上を大型トラックが悲鳴をあげながら何台も走り去っていく。
 唐突に静かになった。しばし車の通らない空白の時間が発生した。その空白に引きずり込まれ、どこまでも落ちていくような感覚が僕の中に沸きあがった。高速道路から黒い腕が生えてきて、僕の胸を突き破り、背骨を握りしめているような感覚だった。

 雷のような轟音が走り去る。
 またトラックだった。トラックは黒い腕をはね飛ばし、引きちぎってくれたようだ。僕はまた一つ深いため息をつきながら夜空を見上げた。

 また歩き始めた。橋をすぎると、前方にぼんやりとした光がにじんでいる場所があった。まだ遠くて不確かではあるが、どうやら電気がついて営業中の建物があるようだった。建物自体は見えないが、その建物からもれる照明が道路まではみ出していた。

 オフィスビルかスーパーマーケットだろうかと思ったが、それにしては照明の色が妙だった。白系統ではなく、紫のようなピンクのような色味を帯びていた。
 管理されているかどうか怪しいほど寂れた畑をやりすごし、あきらかに昭和からそこにあるような中華料理屋をやりすごし、電気の消えた雑居ビルをまたいくつかやりすごした後、ようやくさきほどから見えていた明るい建物にたどり着いた。

 そこには城があった。
 誰もが第一番に思い浮かべるような理想の城が、闇の中にそびえ立っていた。
 三階建てで、真っ白な壁は薄紫のライトに照らされて怪しく輝いている。屋根は昼間の空の色を吸収したかのような青色をしていた。壁には小さくて可愛い窓がいくつもならんでいる。いくつか尖塔も備え付けてあり、一番高い尖塔にはバルコニーと窓もあった。
 どことなく見覚えのある外観について、数秒記憶を掘り起こして答えに行きついた僕は呟いた。

「ノイシュバンシュタイン城じゃないか」

 もちろんこんなところに本物の城があるわけなかった。

「ラブホか……」

 思わず気の抜けた笑い声が口から出てしまう。
 中身はともかく外観は立派だったので敷地に入ってみたくはあったが、さすがに勇気が出ず諦めることにした。入口から少し離れて周りを見渡す。僕の他に人の気配はなかった。たまに車が通るくらいである。

 これからどうしようかとぼんやりしていると、道を挟んだ向こう側、営業中のカラオケボックスが目に入った。途端に体の重さを自覚した。さすがに疲れが出始めている。少し休むことにした。
 車が来ていないタイミングを見計らって大きな道を横切った。カラオケボックスはコンテナを改造しただけの古めかしいものだった。

 受付で六時間コースを選び、ドリンクバーでウーロン茶をコップに注いで、部屋に入った。禁煙部屋のはずだが、煙草の臭いがした。
 部屋に備え付けてある電話で唐揚げポテトセットを注文した。店員を待つ間、適当に曲を選んで機器に入力していく。カラオケは普段利用しないし、そもそも歌なんて歌えない。今回も歌う気はさらさらなかった。ただのBGM代わりのつもりだ。選曲はどれも自分が十代の頃に聴いていた歌ばかりで、いかに自分が今の流行りを知らないか思い知らされた。

 一曲目のイントロが流れ始めた。アップテンポの曲だった。うるさい。もっと穏やかな曲を入れればよかったなと後悔しながらもスキップすることなく流し続けた。
 店員から唐揚げポテトセットを受け取った。そういえばビールを飲んでばかりでまだ晩御飯を食べていない。時計を見ると九時半を過ぎたところであった。

 それにしてもカラオケ用の画面に流れる映像はなぜこんなに古いのだろう。歌詞よりもそちらが気になってしまう。

 映像の中では、大学生くらいの女性が不良っぽい男達とつるんでドライブをしていた。女性自身も悪ぶりたいのか、煙草や酒を飲んではしゃいでいるが、その表情は楽しくなさそうで、何か思い悩んでいるようだった。女性達の乗った車は、橋の真ん中で止まった。橋は高所にあるため、車から降りた男性陣は景色を見たりして楽しんでいた。みんなからは一人離れて橋の下を見ていた女性が、唐突に橋から飛び降りた。
 あわてて橋の下をのぞく男達。すると彼らが目にしたのはバンジージャンプ用の紐にぶら下がって笑っている女性の姿だった。

 いったいいつの間にその紐を設置したのだろう、という疑問はあるが、そんな細かい所に突っ込みを入れるような映像ではない。
 彼女の中に、死にたい気持ちは少しでもあったのだろうか。映像を最後まで見てもさっぱりわからなかった。

 例えば、今このカラオケボックスで自殺するのはどうだろう。死ぬにはいい場所か? よくない。まず景色がよくない。この部屋の中に見えるのはヤニで黄ばんだ壁と意味不明な映像が流れるモニターだけだ。それに、どう綺麗に死んだところで店員に迷惑がかかる。それは不本意なことだった。

 それに引きかえ、今の映像に出ていた女性は素晴らしい。結局死ななかったが、あれは間違いなく死ぬにはいい場所だ。
 先程、僕が歩いて通り過ぎたような、おそらく高速道路をまたぐようにかけられた高い橋。そこから見える景色はなかなかいいと思われる。女性の周りにはとりまきがいたし、橋の下がどうなっているのかは不明だが、仮に一人で、山の中にある同じような場所で死んだとすれば誰にも迷惑がかからないだろう。
 
 人知れず山の中で死ねば、野生動物が死体を食べてくれるかもしれない。土に返って、そこから植物なんかが生えてくることもあるかもしれない。その山に生える草木と、生きる動物たちにまじりあって、静かに存在し続けるのだ。素晴らしいではないか……。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。六時間コースの制限時間が来たことを知らせる内線がかかってきた。

『延長はしますか?』
「しません」

 かなり長い時間眠っていたようで頭も体もすっきりしている。
 受付で料金を支払い、店を出ると、外はまだ暗かった。腕時計を見ると、三時四十分をさしていた。
 あらためて付近を見回すと、カラオケボックスの敷地を囲むようにして木がおい茂っている。林の奥がどこまで続いているのかは暗くてよくわからない。風で葉がさらさらと音を立てている。

 出口のすぐ近くに木製のベンチが置いてあるのを見つけた。ベンチは風雨にさらされてボロボロになっている。僕は恐る恐るそのベンチに腰かけ、すぐさま崩壊しそうにないことを確かめた後、本日三本目の缶ビールを開けた。プルタブを開ける音だけが闇の中に鳴り響いた。

 ベンチからはあの城を模したラブホテルがよく見えた。時間帯としては朝に近くなっているが、相変わらず煽情的な色合いの光をあびながら、城は人々を待ち構えていた。
 あの城の中にはどれだけの人がいるのだろう。男女か、それ以外の組み合わせか知らないが、いずれにせよ僕のように孤独な人間がいないことは確かだろう。

 いや、そうとも言い切れない。孤独な人と孤独な人がペアを組んで一緒にいるだけなのかもしれない。たとえ誤魔化しであろうとも、僕はそれが幸福に思えた。
 望む望まないは別として、形としては命を生み出す作業をしているわけだ。あの城の中には、少なくとも今この瞬間に限り、死から一番遠い人々がいるのかもしれない。

 風が強く吹いた。僕の後ろに林立する木々のざわめきが大きくなった。いい夜だなと僕は思った。
 しばし目を閉じて、聞こえてくる音だけに集中していると、木々の音や車の音にまじり、何か声のようなものが聞こえた気がした。

「いや、この距離で?」

 それはおそらく喘ぎ声だった。「あぁん」という女性の声が確かに聞こえた。しかし、さすがに遠すぎる。大きな道を挟んだ向こう側にある城と今僕がいる場所までは、数十メートルか百メートルは離れているだろう。いくら盛り上がっているとしても、ここまで聞こえるだろうか?
 城の方をいぶかしげに見ながら声の出どころを探っていたのだが、どうやら僕の前方ではなく斜め後ろから聞こえているようだった。ベンチに座ったまま体をねじり、茂みを見る。人影は見えない。

「あぁん」

 声は確かに聞こえる。僕は少し馬鹿馬鹿しいような気分になりながらも立ち上がり茂みに近づいた。
 二メートルほど茂みの中に入りこんだ。これ以上進むと木々の生える林の中に入りこまなければならなくなる。やはり気のせいだったか、と納得しかけたが、諦めきれず、再び用心深く目をこらした。するとすぐそばに、ぼんやりと白く光る箱が落ちているのに気づいた。

 箱の中にいたのはこれまた白い猫だった。

「あぁん」
「あぁ、そうか。君か」

 猫を飼ったことはないので自信がなかったが、もう子猫ではないと思われるサイズだった。少し痩せているように見えた。捨て猫かと思ったが、よく見ると首輪をしている。

「どういうこと? 迷子の迷子の……」

 人見知りしないのか、僕が近づいても逃げることなくこちらを見上げていた。しゃがんで、頭を撫でた。やはり逃げない。首輪を確認したが、名前などは書かれていなかった。猫が住処としている箱には『えびせんべい』と書かれていた。

「えびせん……えびせん?」
「にゃあ」

 えびせんと呼ぶことにした。えびせんは捨てられたのか、勝手に逃げ出してここに住みついたのか、僕には判断できなかった。
 放っておいて仮に死んでしまったら、と考えると寝覚めが悪い。

 数分後、また大通りを僕は歩いていた。えびせんは買い物袋にいれて持ち運んでいる。ひとまず行き先は交番に定めた。本当は保健所などのほうがいいのかもしれないけれど、調べる気力がなかった。とりあえず警官に引き渡せば何とかしてくれるだろう。

 えびせんは大人しく袋に収まっている。朝の五時前、そろそろ東の空が白んできた。
 ノイシュバンシュタイン城はもう見えなくなり、高速道路も遠ざかり、ひたすら家々が続く道を歩きながら、いったいこの夜はなんだったのかぼうっとした頭で考えていた。
 交番ではなく死に場所を探していたはずだ。交番で死ぬというのもまた悪くないのかもしれない。死ねばすぐに警察に処理してもらえそうである。無駄がない。
 そんなはた迷惑な妄想を膨らませるだけ膨らませて回収できなくなった頃、小さな交番にたどり着いた。交番の電灯はついているが、ドアは閉められており無人のようだった。

「あぁ、まぁ、そりゃそうか」

 まだ朝の五時すぎで、警官がいつ来るのかは不明だった。僕は途方に暮れた。えびせんは人の気も知らないで、穏やかな顔をして眠っていた。

 交番の向かいには小さな公園があった。そこで警官があらわれるまで待つことにした。公園にはベンチと水飲み場と遊具が一つだけあった。遊具は子供がまたがって乗るだけのものに見える。その造形はエビフライのようなイモムシのような妙なものだった。

 水飲み場で僕が水を飲んでいると、えびせんが目を覚まして袋から出てきた。えびせんは水飲み場の上にジャンプして登り、水を飲み始めた。暗闇では白く見えたえびせんも、既に明るくなり始めた今、あらためて見ると薄汚れていた。ついでに体を洗ってやろうかとも思ったが、猫は風呂を嫌うと聞いたことがあるためやめておいた。
 えびせんがぺちゃぺちゃと水を舐める音だけが聞こえた。車も風も沈黙していた。

「もし飼い主が見つからなかったら、どうなるんだろうな」

 えびせんは一度こちらを見て、何も言わずに、水を舐める作業に戻った。

「その時は僕と一緒に住むってのはどうよ?」

 えびせんは水飲み場から降りて、僕の顔を見上げ、「にゃあ」と一つ鳴いた。
 僕はえびせんを抱えてベンチに座った。公園を囲む家々の向こう側で朝日が昇り始めていた。

「もう土曜日が始まったのか。なんでこんな知らない場所で猫と一緒にいるんだ?」

 えびせんは僕の手をぺろぺろと舐めていた。

「えびせんってなんだよ。まぬけな名前だねぇ」

 えびせんは僕の手を舐めるのをやめて太ももの上で丸くなり、目を閉じてしまった。僕は、あと一本だけ残っていた缶ビールを開けて飲み始めた。

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