見出し画像

The Coral『Butterfly House』レビュー

アーティスト:The coral
タイトル:Butterfly House
レーベル:Deltasonic Records
リリース:2010/07/12

「別物」のコーラル

このアルバムの「如何にも、」なプロダクションから聴こえる本作の音はヘイト・アッシュベリーの幻影のようなものがそこはかとなく漂って来て、今までのコーラルとは全くの「別物」のように鳴っている

リヴァプールはDELTASONICというレーベルの筆頭株として、主にアーティスト・サイドからの熱烈な支持者を獲得しながら00年代を駆け抜けたコーラルだったが、彼らの3作目のアルバムである『インヴィジブル・インヴェイジョン』周辺の時期にバンド・サウンドの中軸もであったビル・ライダー=ジョーンズの離脱による、バンド自体存続の危機を経験し、紆余曲折あってから、一度は離れてしまったビルを交えて『ルーツ&エコーズ』という原点回帰ともいえる作品をドロップしたのは記憶に新しい。

結局その後間も無くビルは正式に脱退してしまうが、それから3年という彼らにしては随分と長いインターバルを経てリリースされることになった本作『バタフライ・ハウス』の、先行シングルであり同タイトルである 「バタフライ・ハウス」を彼らのマイ・スペースで初めて試聴したのはまだアルバムの全貌が曖昧だった頃だと思うが、兎角私は驚きを隠し得なかったのを覚えている。

ジェームズの重く沈み込むようなトーンダウンしたヴォーカルにノイズっぽいジャラジャラと重厚感のあるギター、それらを繋ぐように入るサイケデリックなオルガンの音色―どれもかなりヘヴィーなもの―を抜かして行くドラムによる軽快かつ正確なスカの抜けるようなビート、
或いは華麗なギター・リフのレイヤーといった、デビュー作以来コーラルの特徴でもあった大人数ならではの個々のパートによる伸びやかな演奏とその掛け合いといった作品のスタイルを後景に回されている。

今作ではギター、コーラスを大きくフィーチャーした“バンドしての”グルーヴを重視したサウンド・プロダクションに、或いは拍子抜けするようなジェームズの軽やかな歌声…これらには、ストーン・ローゼズの1stと、2ndの一部のプロデュースをしたジョン・レッキーの影響が大きいような気がした。

このアルバムの「如何にも、」なプロダクションから聴こえる本作の音はヘイト・アッシュベリーの幻影のようなものがそこはかとなく漂って来て、今までのコーラルとは全くの「別物」のように鳴っている(私が驚いたのはまさにここで、アルバム単位でコーラルというバンドを見た場合の本作の飛躍には多少なりとも驚くのではないかと思う)。

しかし前述した通りジョン・レッキーによるプロデュースというセンセーションは言うまでもないが、他にもUncut誌(4/5点)、The Fly誌(4/5点)、NME(8/10点)と英国各メディアから太鼓判を押されたことからも、本作は彼らの「(最高)傑作」として「語られる」ことの可能性を感じずにはいられないことも確かである。

The Coral "itself"

作品が「自分自身」を語り出した時、「それ」は作者にとっての最小単位になるとするならば、『ルーツ&エコーズ』は「The Coral itself(コーラルの基幹部)」が初めて地表に露出した瞬間であり、コーラルが「コーラル」になった瞬間であると言えるのかもしれない。

00年代初頭、イアン・ブロウディのプロデュースの元で華々しいデビューを飾った彼らは、同プロデューサーの元リリースされた1st『The Coral』、2nd『マジック&メディスン』にてスカやカントリー、ブルーズを掘り下げながらノスタルジアを網羅した「英国らしいポップイズム」と折衷される幅広い参照点に裏付けられた独特なサウンドでリスナーを圧倒したが、スリップノットを“ファッキン・ボス”と称するような若者らしいやんちゃさがキュートなバンドでもあった。

プロデューサーのブロウディは元々リヴァプール人脈のプロデュースをメインに活動していたようだから、60s然とした良質なポップスともいえる音を奏でていた彼とコーラルとは元々、相性が良かったのかも知れない。

『The Coral』収録の「Dreaming Of You」はその発表とともにクラシックになり、続く3rd『インヴィジブル・インヴェイジョン』ではジェフ・バーロウ、エイドリアン・アトレイの元、
心地好い低音はそのままに初期コーラルに見られるバンドの音からは少し浮くような、ジェームズの声のかすれた攻撃的な面を抑えてジェントルに、少し垢抜けたようなヴォーカルに付則するバンドメンバーの音群はハイとロウの中間値を取るように入っていて、“バンドの鳴らす作品”として(完璧とはいえないが)、非常にバランスのよい佳作となっている。

この当時のインタヴューでジェームズが「(自分は)もうジジイになったような気分だよ」と語っていたのは有名な話だが、この辺りの変化には気持ちの変化も影響しているのかも知れない。

『インヴィジブル・インヴェイジョン』から更に2年という間を経てドロップされた彼らの4作目『ルーツ&エコーズ』では、
アシッドのことや若者らしい不安や足場の無さは歌っていないし(そこにおいて彼は「彼女」(或いはその「亡霊」)について謳った)、ギターはノイズやトリッキーなリフは(相変わらず存在するけども)抑えられ、往年のポップソングのようなプロダクションからは飾り気のないナイーヴな優しさが見てとれる。

ヴィデオクリップについても本作関連のものは舗装されていない野道を車に揺られる(「Jacqueline」)といった牧歌的なヴァイブスに包まれているが、今ではアンニュイな眼差しの彼らも元々は目に痛いエフェクトを掛けたものや(「In The Morning」)、街を走り回ったり叫んだりする(「Dreaming Of You」等々)ものが多かった。

ちなみにリリース当時ジェームズは、こんな言葉を残しているが—「若い頃には、曲のキャラクターをでっち上げる必要がある。でも、このアルバムの曲はどれも実際の経験に基づいているんだ」、

作品が「自分自身」を語り出した時、「それ」は作者にとっての最小単位になるとするならば、『ルーツ&エコーズ』は「The Coral itself(コーラルの基幹部)」が初めて地表に露出した瞬間であり、コーラルが「コーラル」になった瞬間であると言えるのかもしれない。

私的にはそういう意味でもこのアルバムはコーラルのフェイヴァリットであり、発売された当時は彼らの「次」が早くも気になって仕方なかった記憶がある。

オーセンティック・マージービート

実際、彼らの音楽には“モダンであってモダンでない”ような、メビウスの輪のように翻って行く時間軸を耳で追う心地好さがある。

キリスト教右派、HIV陽性者、そして何より、「ゲイ」という立場から政治的発言をとるアンドリュー・サリヴァンは嘗て、任意の事象に対する形容詞はいずれそれ自身の「身体」を離れるといった旨のことを残した。

つまり、彼の言う「ゲイ・カルチャーの終焉」はゲイカルチャー「それ」自体の消滅(=形容詞は事象を形容する所作を失効する)だったわけだが、その文脈に沿うならば、「ノー・モア・ナガサキ」は所謂ノー・モア・ナガサキ(=長崎の悲劇を繰り返さないで)ではないともいえる。

欲望は転移するからして、仮想的であれ、この欲望に対置される「敵」がある限り、「それ」はそれに向かうポテンシャルを秘めているからだ。つまり、この手のシュプレヒコールは寧ろ本来の文意を外れ、「*****」—反転した欲望を標榜するのだ。

したがって彼の言っていることは「我々は名前から解放される必要がある」、ということになる。

今更言わずもがなだとは思うが、マージービートというのはそもそも、ブラック・ミュージックを咀嚼したアメリカの若者と、彼らの音楽や在り方を咀嚼したビートルズ、ローリング・ストーンズ、キンクス、フーといったイギリス(白人)の音楽の逆輸入(=「ブリティッシュ・インヴェイジョン」)の最中に起こった音楽のことで、ビートルズの出身地でありマージー川の河口に位置するリヴァプールに因んで付けられた名前である。

マージービートとはそれらと比べもう少し包括的な地域のコンテクストを含む「ブリティッシュ・ビート」との差別化を図って、前述したバンドたちを筆頭にエコー&ザ・バニーメン、ラーズ、ズートンズ、トルバドールズ、そして最近ではウォンバッツといった面々の総称として使われる。

そういうこともあってコーラルというバンドは英国の二文字を髣髴させる「インヴェイジョン」という言葉の動作主を「インヴィジブル(=不過視)」にしているし、ビートルズ、ティアドロップ・エクスプローズ、エコー&ザ・バニーメン、ラーズといったオーセンティックなマージービート勢をフェイヴァリットに掲げている。

ただそこで単純なアナクロイズムに走るわけでなく、モダンな感性と掛け合わせて独特ともいえる作家性へと昇華させる所作からは絶妙なバランス感覚と彼らのエッヂを感じる。
実際、彼らの音楽には“モダンであってモダンでない”ような、メビウスの輪のように翻って行く時間軸を耳で追う心地好さがある。

しかし例えば、彼らがオーセンティックな「マージービート」の渓流をドライヴしながらも「そこ」に、 言い換えればシーンなるものの「何処か」に所属することなくある種の「普遍的な」音楽性を打ち出してしまうような賢さが仇となって、ピート・ドハーティに「Dreaming Of You」のカヴァーをされながら、アーティスツ・アーティストとして浮上する事も沈降する事もなく、長らく地盤からシーンを支えるような存在に甘んじてきたともいえるのかもしれない。

後にセカンド・サマー・オブ・ラブと称されるムーヴメントが、ストーン・ローゼズのスパイク・アイランドでの大勝利(映画『LIVE FOREVER』よりノエル・ギャラガーの発言)が世界に飛び火していったことを考えると、
ミステリーの死というコンセプトを持ちながら、内輪よりも「外向き」のアティチュードを持っているともいえるジョン・レッキーのプロデュースでドロップされた本作はある意味では、次回作以降に繋がるであろう新しいプロダクションを試すものだったのかもしれない(本作は後にアコースティック・ヴァージョンもリリースされる)。

今後の彼らはどのように進化(深化)していくのか、間違いなくこの作品が分岐点となるはずである。ただし、それによって嘗てのファンは篩にかけられるかもしれない。(私自身、デビュー当時から彼らを見守ってきていたが、動揺を隠せなかったように。)

アシッドが決まった状態ではしばしば太陽の幻覚が見えることがあるそうだが、夜から昼へと、或いは地下から地表へと視線を反転させたときの眩暈のような、白昼夢のようなサウンドを放つ「コーラル」という存在から私は益々、目が離せない。

※後日談:2018年、彼らはこんな感じになりました。クソ笑いました。

画像1


もしお気に召しましたらサポートで投げ銭をいただけると大変に嬉しいです。イイねボタンも励みになります。いつもありがとうございます〜。