ある大学野球部を応援した3年間<1>

おそらくどの野球雑誌のドラフト企画にも載っていないころから応援していた大学生が先日のドラフトで指名をされました。アマチュア野球ファンであり、プロ野球ファンである私ですが、野球ファンとしてある意味“絶頂”を迎えたわけです。近年、思い出話を語っていると、

ふと「盛っていないか?」と自分で思うことがあります。

昔々、聞くたびにデカくなっていったおばあちゃんの思い出話を思い出します。そう、時間が経ち、何度も話しているうちに、思い出話って悪気はないのに盛りがち。そこで、思い出をいまの温度で保存し、今後よけいな味付けをしないために、備忘録として絶頂までの日々を綴っておこうと思います。それは、のちのドラフト指名選手と、その選手を輩出した新設野球部を応援した日々です。

始まりは2014年春

家族が新潟の強豪校・新潟明訓高校出身(帰宅部)ということで、明訓の戦い、そして野球を続けている野球部OBを野球ファンとして応援してきました。その明訓高校を春1回、夏7回甲子園に導いた佐藤和也監督が2012年夏を最後に勇退し、翌年から新設される新潟医療福祉大学硬式野球部の監督に就任するとのこと。最後の夏に見事甲子園出場に導き、甲子園でも1勝を挙げて花道を飾った佐藤監督。その姿を勇退後の新潟県高校野球秋季大会で見かけた私は、ずうずうしくも「いつから大学野球が見られますか?」と質問。すると「手続きの都合で来年の秋になると思います」という返事をいただきました。

新潟医療福祉大は関甲新学生野球連盟に加盟。2013年秋、3部からのリーグ戦参戦となりました。明訓高校の主力選手2人も同大学に進み、大学野球をスタートしました。最初のリーグ戦の結果を気にはかけていたのに、当時、家族の10年にも及ぶ中国赴任生活が終わろうとしていたころで引っ越しの手続きなどで生活がバタバタ。ふと気がついたら最初のリーグ戦は終了していました。創部1期生の1年生だけで挑んだリーグ戦は、特に金属バットから木製バットに変わった打撃面で苦戦をしたようで、3部5位という結果でした。

そして、いよいよ初観戦。それが2季目となる2014年の春季リーグです。場所は埼玉県の東松山野球場。指揮を執る佐藤監督の姿、明訓高校出身の宮島選手のホームランが見られ、「いや〜明訓がんばってるね」(余談ですが数週間前に派手に転んで足を怪我し、ギプスをしていたので)「足ひきずって来た甲斐あったね」なんていって帰ってきたものです。今年のドラフトで中日ドラゴンズに4位指名された笠原祥太郎選手の投球を初めて見たのもこのときでした。

背筋が伸びた気がした瞬間

その春は3部で優勝、入れ替え戦は新潟医療福祉大のグラウンドで行われました。そこはスタンドがなく、土手のようなところからグラウンドを覗くように観戦。2部最下位の新潟大学に連勝し、2部昇格を決めました(その後リーグ再編があり、次の秋季リーグは地区制に。と思ったらすぐに3部制に戻り、2部参戦は2015年春となりました)。2シーズン目で階段を1つ昇った野球部を見届け、ふとグラウンドのわきを見ると野球バッグとシューズがそれはきれいに並んでいました。

このとき、野球部には1、2年生しかいません。2年生は「先輩のいない部」だと知って入部。1年生の先輩だって2年生1学年しかいないのです。私もどこかで「自由」や「ゆるさ」を求めて入部してくる選手たちもいるのかなぁ〜と思っていたんでしょうね、先輩もいないのに自分たちでルールを作り、自分たちを律して、歴史を作ろうと取り組んでいるというのに。勝手に応援していただけですが、背筋が伸びたような感じがしました。これはちゃんと彼らの取り組み、彼らが作る歴史をしっかり見なくてはいけない、と。

歴史はもう動いていると感じた涙

勝負に対する高い意識を感じたのは、この春季リーグ後に行われた新人戦です。

1〜3部の全チームがトーナメントで戦う新人戦で新潟医療福祉大は準決勝まで勝ち上がりますが、白鷗大学に0-1で敗れベスト4。とはいえ、1部の上位常連校である白鷗と接戦です。どこか「上出来」と思っていた私をドキっとさせたのは、新人戦で監督をつとめた学生コーチの試合後の号泣姿でした。そして聞こえてきた「あー、上武とやりたかった!!」という声。そして思ったのです。「もう、歴史は動いている」と。彼らは私が思っていたよりも、早く、強く、勝負へのこだわりをもって日々を過ごしているんだと感じたのです。

<2>につづく…。

#大学野球



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