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自己紹介

初めまして、RAZZLE DAZZLEというお店をやっていますRyozzyです。

24歳で独立しまして今の今まで独学でやってきました。主に車の内装、シート、バイクのシートを製作する仕事を生業としています。2020年の2月で丸16年やってきましたが有り難いことに様々な仕事に携わる事が出来今に至ります。

自己紹介に何を書こうかと思ったんですが、10年ほど前、当時やっていたBLOGで右腕にTATTOOを彫った際、思いのたけを書き綴った文章が僕の事をよく表していると思いましたので転載させていただき自己紹介にしたいと思います。

なお僕のnoteでは24歳から40歳の現在までどんな事をして生きてきたのか、また鳴かず飛ばずの時期を越えて結婚し家を建て、子供が生まれ楽しい自分のライフスタイルを作ってきたか等についても書こうと思います。創業当時の僕と同じ歳くらいでこれから独立を考えている方、事業が上手くいかず悩んでいる方の 『閃きのきっかけ』 みたいな物になればとてもうれしく思います。今思うと大真面目に馬鹿な事をやっていた時期笑もあるので今後の記事で書ければと思います。

そして、このジャンルで職人として生きていきたい方、もしくはすでに足を突っ込んでいるが作業に悩んでいる方などのテキストになるようなHOW TO記事も書くつもりです(恐らく有料となりますが。。)のでよろしくお願いいたします。では改めましてBLOGより自己紹介文の転載です↓

記事のタイトルは 『錨』 です。


賛否両論あると思うんです、たぶん。いや、絶対ここ日本では否の方が圧倒的大多数だと思います。以前ここで紹介した蟹の絵を今日彫ってきました。

うっそ!!まじで!Ryozzyやっちゃったよ。。。 と思う人もいれば、何いい歳してTATTOOの一つくらいでこんなとこに書いてんだよって思う人もいるでしょう。
色々と考えめぐらせて出した結果なんです。僕にとっては大事です。
で、今日はそんな心の内を書き綴ります。そういうの面倒くさい方はスルーしてください。相当長文です。

TATTOOなんかしちゃってRyozzy君は志高いね!と思うお客さん方がそこそこいるんではないかと思います。意思屈強だね!って。
がっかりするかもしれませんが自分から見た僕はむしろ全く逆です。
思い返せば今のこの仕事、決して志高く持ってはじめた仕事ではありません。ずっとしたかった仕事でもありません。流れ流れて辿り着いてしまった『港』みたいなもんです。

僕はガキの頃、漠然と動物園の飼育係になる!って思ってました。小学校に入り、高学年でバスケットを始めるとなりたい自分はNBAのプレイヤー。それは卒業文集にも書いてあります。中学校に入り、勉強大嫌いだった僕は中1のころは高校も行かないで大工になる!とまた漠然と思っていました。しかし、よりバスケットに打ち込み、高校に行ってバスケットもしたいな~高校も行ってみたい!と思い始めた僕は中3になったくらいから勉強をそこそこ頑張り、都立高校へと進学します。高校へ行くと今度は興味が英語の方へ移り、将来英語の教師にでもなろうかな?と思い始めそこそこ英語の勉強を始めます。ここでもバスケットはずっと続けてます。あ、文章書くのも好きだったのでコピーライターとかもいいな~と思っていた事もありました。
そして大学を決める時、バスケットを続けたかった僕は当時国内大学リーグトップクラスだった大学に進学を決めます。しかしながら進んだ学部は英語系ではありませんでした。
進学したその大学のその学部は、他の学部に比べて自由に使える時間がとても多くいろんなバイトがたくさん出来る学部でした。単位を落とさない程度に授業に出席し、空いた時間はバイトに勤しみました。あまりにレベルの高すぎたバスケット部には入らず(入れず)程よく強いサークル活動に僕のバスケットは落ち着き、そして終焉を迎えました。

バスケットへの思いも失せ、入った学部は英語とは無縁、大工にもなるすべなし。何やら先が見えなくなった僕は、自由の利く時間をとりあえずバイトと趣味に当て始めます。たぶん人生で一番遊んだ時期だったと思います。バンドやって、バイク乗って、イベント遊びに行って、ライブ見て。高校時代勉強と部活しかしなかった反動が来たのかもしれません。親父の影響もあって本格的に旧い車に興味を持ち始めたのもこの頃でした。とにかく旧いキャルマガジンなんぞを古本屋で買い漁り読みまくりました。今思えば今やっている仕事の下地作りはこの辺りから始まっていたんでしょう。
HOT ROD、バイク、Rock、そしてTATTOOの洗礼を強烈に受けた時期でした。

そんな状態のまま、ろくに(と言うか全く)就職活動もせず僕は大学を卒業してしまいます。やりたいこと、なりたい自分が何なのか全く分かりませんでした。
続けていたレンタカーのバイトは続けたまま、僕は漂流しはじめます。

そんな僕がぶらっと立ち寄った近所のセブンイレブン。手に取った求人雑誌の一角。
『米軍中古家具仕入れ販売リペアスタッフ募集』の広告。
元より旧いものに興味の矛先が向いていてアメリカカルチャーへの憧れがあった僕は直感で『コレは面白そうだ!』と思い、その雑誌は買わずに、その場で携帯から電話をして面接のアポを取りました。
40分の1だった高倍率の面接をクリアし入ったのが八王子にあった今は無き店です。

この店ではほんとに色々な事を1年弱の短時間のうちに学びました(体感したって方があってるかも)。米軍に仕入れに行って、家具直して、販売して、配達して、RAZZLE DAZZLE発足当時の下地はこのときに学びました。店長になってからはほとんど休みもなくとにかくめちゃくちゃに働いてました。いい仲間もいて、休み無くても給料安くても楽しくやれていました。それなりに。

僕のいた家具屋は主に米軍の払い下げ家具がアイテムの中心でとにかく同じ物が大量に入荷します。なのでそいつを使ってオリジナルな家具をでっち上げるわけです。
ところが、全国で大量に出回る米軍家具はかっこいいリメイクが出来ると、同時多発的に全国で同じ物が出回るという現象がおきます。何処もかしこも『世界に1つだけのリメイク家具!!』とか謳って。
既製品が嫌いで、人と同じが大嫌いな僕はカスタムカルチャーの洗礼を受けていたこともあり片っ端から在庫の家具をリメイク、いや『KUSTOM』し始めます。

そのうちに米軍家具以外の自分で勝手に仕入れた国産の家具なんかもカスタムして上司の目を盗んで店頭で売り始めると真新しさもかってよく売れました。
気をよくした僕は『コレはいける!!』と思い込み、このカスタム家具で独立を決心します。
そのお店を辞め、運良く潜り込めた知り合いの家具屋に居候を決め込み、連日連夜家具にまみれ、その知り合いが店をたたむ時にまたも運良く発見できたのがこの場所です。

頑張って開店準備を進めあと1週間後にオープンって時にバスケットで酷使してきた腰がぶっ壊れます。ヘルニアです。
オープン三日前に入院。そうこのRAZZLE DAZZLEがオープンした時、主は病院のベッドの上でした。オープン当日は仲間達が開けてくれました。
結局手術を終えて1ヶ月半後に退院。
しかし、背骨に穴を開けた僕が人並みに動けるわけがありません。実際満足に動けるようになるまでは1年くらいかかりました。それでも軽めのカスタムを施した家具を販売していたんですがやはりと言うかやっていけるほど売れない。結局薄利多売で売りさばき、カツカツでお店は瀕死でした。暇な時間はリハビリも兼ねてチラシをポスティングしていました。

とにかく仕事は来れば断らず、何でも屋みたいに思われていた事もありました。
『このままじゃ絶対やばい、何か策は無いのか。。。』と思っていたときにちょこちょこと話を頂いていたのが『椅子の張替え』でした。今のRAZZLE DAZZLEのメイン業務の原点はここです。しかしながら以前にいた店でも椅子の張り替えはミシンを使わないで張れる物以外全て外注。何にも知らないままとにかく在庫の椅子を張り替えて販売しそれで試した材料や道具でお客さんの椅子も張るようになります。
『ソファも張らないと儲からない!』と必要に駆られてヤフーでミシンを購入。完全に独学でミシンを踏みます。が、小学校の家庭科以来触ってもないミシン。まして業務用。踏める訳がありません。糸はこんがらがりまくり。針は折れまくり。それでも毎日ミシンと戯れているうちに言う事を聞くようになったミシンでとにかく椅子ソファを張りまくります。相手にするお客さんはKustomとは縁遠い年配の方々。発足当時のカスタムファニチャーは影を潜め張替え屋RAZZLE DAZZLEへとシフトしていきます。でも仕方なかったんです、じゃないとRAZZLE DAZZLEが無くなってしまいます。家族や友人の協力で創められたRAZZLE DAZZLEをそんな簡単にあきらめるわけにはいかなかったんです。
実際、張り替えは新鮮でやればやるほど面白く、仕事自体がめずらしいという『珍しい物好き』の僕にとっては合っていたんだと思います。じーさんの『人と同じ事はするなよ』の言葉も手伝って。

程なくして仲間のバイク乗り、近所の旧車乗りが『シートはできないかな??』とちょろちょろ仕事をくれるようになり今の業務の取っ掛かりが出来始めます。
近隣のカスタムショップと知り合ったり、仲間がカスタムバイク屋なんかを始めるとその輪は一気に広がります。それが現在のRAZZLE DAZZLEです。

長くなりましたが、僕はその都度やりたいこと、やりたい仕事が変わり暗中模索してきた人間です。志高く今の仕事についたわけじゃないんです。
『やりたい仕事』を模索するうちに『やれる仕事』が見つかって、いつしかそれが『やりたい仕事』になって『やるべき仕事』になったにすぎません。
点々といろんな港を漂い続け、今のこの港に辿り着いたんです。流され流されて。

このTATTOOはそんな僕をこの港にとめておく為の『錨(イカリ)』なんです。

またいつぞや今より楽で出来そうな仕事があったら流れていかないように。
『航海』も『後悔』もしないように。
二度と引き上げられない錨です。

目指した事は全部中途半端に終わって何か1つ『これだけは!』というモノをずっと探してきました。
『何でも出来るんだね』って言われるのはキライなんです。
何やってもそこそこしか出来なかった器用貧乏がずっとコンプレックスだったから。
やっとこ流れ着いた、それが今の仕事なんです。

奇しくも僕の本名『綾史』には糸という文字が入ってます。
縫うっていう字にも糸が入っていて、縫うは糸がめぐり逢うって意味です。
僕の作ったシートやクッションを見てそれを見た人、受け取った人がいろんなとこでめぐり逢ってまたその先で出会いがある。
RAZZLE DAZZLEってそういうのも提供している店だと思ってます。

ウチの感性にヒットしそうなものなら国内外新旧問わず、何とかしようと協力、努力、研究します。僕のNEEDLE WORKで出来得る限り。
RAZZLE DAZZLEって港からはもう出航しませんので!


ご精読ありがとうございました。現在のRAZZLE DAZZLEのHPは

こちらになりますので作品等ご覧になりたい方は是非アクセスしてみてください! https://razzledazzle.jimdofree.com/

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