札の辻

東京都港区、札の辻。元和9年、三代将軍家光が50人のキリシタンを集団火刑に処した場所として有名である。

遠藤周作の有名な短編集『哀歌』には、この場所を舞台にした「札の辻」という短篇が収められている。ぼくにとっては『哀歌』のなかでも特に印象深い作品だ。

「札の辻」は本当に短く、あらすじも単純だ。ある男が、卒業したミッション大学の同窓会へ向かうため、都電に揺られて銀座方面へ向かう。彼はその途上、学生時代「ネズミ」というあだ名の修道士と一緒に、札の辻の崖に登ったことを思い出す。その思い出がこの話のメインパートになっている。

ユダヤ系ドイツ人のネズミは、性格も体格も小さく、学生たちからは嘲笑の的になっていた。しかし、ある出来事をきっかけに、男はネズミから「仲間」と思われてしまう。男が「きりしたん研究会」に出席して、札の辻で起きた五十人の切支丹の集団火刑について話を聞かされた時、ネズミも偶然同席していた。男を「仲間」と思っていたネズミは、彼に札の辻の刑場跡を見に行こうと指そう。それで男は、しぶしぶ彼を札の辻へ連れて行ったのだった。

札の辻に着いた時、男は殉教者たちのことを想像しながら、(しかし、お前さんは絶対、だめだな。俺もだめだがお前さんも絶対だめだよ)と、心の中でネズミに語りかける。自分もネズミも、「二人とも肉体にたいする恐怖の前には精神など意味を失ってしまう種族」なのだと。無意識のうちに、男自身もネズミに自分を重ね合わせていたのだ。「自分もネズミも、刑場に行く前に踏絵でもなんでも踏むにちがいない連中の一人」なのだと。

銀座に着いた男は同窓会の場で、ネズミの消息を聞いた。彼はドイツに戻った後、ユダヤ系であるために収容所に入れられたという。しかし「同じ収容所のユダヤ人が飢餓の刑に処せられた時、この修道士は身代りになって罰を受け死んだ」のだという。「だれが、なにがネズミにそんな変りかたをさせたのだろう。だれが、なにがそんな遠い地点までネズミを引きあげたのだろう。」男はそう思いながら、ネズミの人生を「ふしぎな気持で噛みしめ」た。そして最後、男は電車の中、居眠りをしたり競輪新聞を読む乗客たちの中に、「泥をつけたズボンの膝を貧乏ゆすりしているネズミが腰かけている」ように思うのだった。

先月、ちょうど三田のほうへ出張する機会があったので、昼休みを使って札の辻まで足を運んできた。田町で降りて、昼飯を求めてさまようサラリーマンの群れに巻かれながら西へ向かう。前日の天気予報では最高気温27度と言っていたのに、いやに暑い。確認してみると、予報は最高気温30度に修正されていた。冗談じゃないよ、と思いながら日陰の無い道を5分ほど歩く。

額ににじんできた汗を拭って目を上げると、三田ツインビルが近づいてきた。同時に、大きな女の笑顔が飛び込んでくる。「汗かいて、生きよう。」フィットネスジムの広告だった。

残暑厳しい都会では5分歩くだけでこんなに長く感じるのか、と思いながらツインビルに着いた。シャツに汗がにじんできたのを感じて、降り注ぐ陽が憎らしかった。その同じ陽を浴びて、公園は実にのどかに佇んでいた。少し先を見ると、勾配の緩やかな階段が続いている。そこを登りきったところ、もはや陽の光を浴びない奥まったところから、都の教育委員会が置いた石碑が寂しげに顔を覗かせていた。

今「元和キリシタン遺跡」が置かれている場所は、実際に50人のキリシタンたちが火あぶりにされた場所ではないという。カトリック東京大司教区の教区ニュース240号によれば、その場所は「ビルの裏手、済海寺下にあったはず」とのことである。

そうだとしても、ぼくには充分だった。きれいに整備された公園のなかで、背の低い木々や雑草に覆われたあの小高い丘だけが、遠藤の描いていた「札の辻」の面影を残しているように想われた。斜面は部分的に灰色の、のっぺりとしたコンクリート擁壁で覆われてはいたが、所々黒い地肌が顔を出していた。そこにぼくは、遠藤のいう「黒い崖と木々と」をしっかり見出したのだった。

しばらくの間、ぼくはその場にじっと佇んでいた。眼下ではぽつりぽつりと人々が集まり、ベンチに座って弁当を広げはじめている。だけど、このほの暗い丘の上まで来る人は誰もいない。ここを見上げる人も、誰もいない。その寂しい場所でぼくはひとり、「札の辻」の主人公とネズミを心に描きながら立っていた。あの臆病なネズミが「仲間のために愛のために死んだ」、はっきりと誰かの身代りとして命を棄てた……そうまでに変えられた謎を、「札の辻」の主人公はどんな想いで振り返っていたのだろうか。

30分ほど石碑をむなしく見つめていた後、ぼくは緩い階段をとぼとぼと下り、公園を後にした。交差点に近づいてふと振り返ると、再び「汗かいて、生きよう」という文字が目に入った。交差点は容赦なくトラックが行き交っている。その中で、車の風に揺られて、一匹のトンボが頼りなく飛んでいた。

交差点を渡りきると、新橋方面から社員証をぶらさげた集団が歩いてきた。黒や青の首紐をぶらさげた人々を見ながら、同じ方向から、自らの名前をぶらさげて引き回されてきたキリシタンたちを思い出した。

ぼくは向かってくる人々の厳しい顔つき、疲れた顔つき、あるいは無表情のなかに、その人々の間に、「札の辻」の主人公のようにネズミの面影を見出そうとした。ぼくの目の中に飛び込んでくる無機質な集団には、どんな哀歌が奏でられているのだろう。そんなことを考えていると、途方もない気持になった。ぼくは今にも、泣き出しそうだった。