楽しい読書
今、改めてトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいる。東海大学出版部から出ている北御門二郎訳だ。寝る前にちびちびと読み進めているのだけど、これがやっぱり面白くて、久しぶりに読書を楽しんでいる。
小学校中学年の頃から読書が好きだった。最初は図書室にあったシャーロック・ホームズシリーズに熱中して、その後は(タイトルはいちいち覚えていないけど)小中学生向けの小説を読み続けた。
でも、読書感想文は苦手だった。感想文というと、何か背伸びした道徳的なことを書かなければいけないような気がしていた。課題図書の中には小説もあったが、面白いと思えるような本には出会えなかったし、たぶんまだそういった小説の面白さはわからなかった。面白くない本なのだから、感想もへったくれもなかった。
中学生になってから遠藤周作に出会った。キリスト教系の学校に通うようになったぼくは、聖書を読んでそこに書かれている神様に強く惹かれて、新約聖書を繰り返し読むうちにイエス・キリストを信じるようになっていた。それで、もっともっと聖書に書かれていることを知りたいなと思っていたとき、本屋でずばり『イエスの生涯』というタイトルの本を見つけた。その評伝が、遠藤周作との最初の出会いだった。
それから、遠藤周作の小説をむさぼるように読んだ。難しいことはわからなかったけれど、単純にその物語と作中人物たちに心惹かれて、ある本は図書館から借りて、ある本は小遣いはたいて買ってまでして読み続けた。でも学校の図書館や行きつけのチェーン店の本屋には、置かれている作品には限りがあった。後になって読んだことのない作品を調べて取り寄せたりするようになったのだけど、それまでは図書館や本屋で手に入る近現代の日本文学も読みまくっていた。
高校生になってから、色々な作家が影響を受けたといっているトルストイやドストエフスキーにも興味を持つようになった。最初はドストエフスキーを読みたかった。母親がやはり読書好きだったので、持っているかどうか訊いてみた。そうしたら、「ドストエフスキーはとにかく暗いし、しつこいから……トルストイのほうがいいよ」と言われた。納得はいかなかったけれど、こうなったら二人を読み比べてみたいと思わされた。
結局母親はトルストイを持っていなかったので、そのうち図書室から借りてこよう……でもやっぱりドストエフスキーのほうが興味あるから、『罪と罰』か『カラマーゾフの兄弟』から読んでみようと思っていた。しかしある日、頼んでもいないのに母が新潮文庫の『戦争と平和』全四冊を買ってきてくれた。今思えば、「トルストイのほうがいいよ」と言ってくれたのは、母はトルストイが好きだったのだろうか。それで嬉しくって、息子に買ってきてくれたのだろうか。今度、聞いてみよう。
もう『罪と罰』から読み始める気満々だったのだけど、せっかく母が買ってきてくれたのだからと仕方なく、長い長い『戦争と平和』から読み始めた。……これが、面白かった。物語のどこかに惹かれたというよりも、作中人物たちがすごく生き生きしていて、単純に彼らの行動、発言、その運命に惹かれていったのだ。
四冊読み終えるのはあっという間だった。静かに興奮したまま四巻を閉じた次の日、授業が終わると早速図書館に駆け込んで『アンナ・カレーニナ』を借りたのだった。『戦争と平和』よりもずっと、物語の中に惹かれていった。決して明るい物語ではないのに、哀しみに暮れることもなく、爽やかさすら感じた。
今回『アンナ・カレーニナ』を開いたのは、実にその時以来だ。恩師から北御門訳を薦められたので、手に入れてみたのである。
ここ何年かは娯楽として本を読むということがあまりなくて、基本的には何かを考えるために本を読んでいた。だからドストエフスキーを読み返すことは多かったし、考えるためとはいえその度にドストエフスキーの世界には熱中していたのだけど、トルストイに手を伸ばすことがなかった。
それに最近は読書というと分厚い学術書を読んでノートを取ったり、あるテーマに沿った勉強のためにアンドレ・ジッドやグレアム・グリーンの小説を手に取ることが多かったから、何も考えずに作中世界に浸れるような読書は本当に久しぶりだ。仕事に疲れた日でも、アンナは、レーウィンは、ウロンスキイは、19世紀のロシアの中に連れ込んでくれる。
本当に色々な本を読んだし、手許にあるものはどれもなるべく読み返すようにはしている。しかし今でも読み返す度に面白いなぁ、このまま物語が終わらなければいいのになぁ……と思えるのは、一部の娯楽小説と聖書を除けば、トルストイとドストエフスキー、あとは遠藤周作の壮年期の小説いくつかだけだ。他の本は面白いと思えても、その世界にずっと浸っていたいと思えるようなものは中々無い。
読んだことのない現代小説でそういう熱中できるものと出会いたいなぁと思いながら、本屋に行く度に新しい小説を手に取る。でも、未だにそういった小説には出くわしていない。読んでいるうちに思考が刺激されるものは多いのだけど。
でもしばらくは、『アンナ・カレーニナ』に楽しませてもらえそうだ。もうすぐ上巻が終わるけど、まだまだ下巻が残っている。もう一冊分アンナやウロンスキイ、レーウィンやキティらの生き様を見させてもらえるのかと思うと、わくわくが止まらない。