親友を二度失って


「私は私を大切にしてくれる人とだけ縁を紡ごう」


これが自然とできるようになったのはつい最近のこと。

これまでどんな人間関係築いてきたんだって話だけれど、人としての距離感が合うとか好きなものが一緒とか感覚は似てるけど性格は真逆とか特別深く考えたことはなかった。むしろ悩んだことなんてほとんどなかったかな。

私には中学時代からよく行動を共にしたり海外旅行に行くほど関係の深い友人が2人いた。それぞれと仲良くしていて1人とは高校2年のころに、もう1人とは大学3年のころに距離を置くことになった。どちらも異性関係に対する価値観の違いがきっかけだった。今これを記しながらもなんてくだらない理由なんだとも思うのだけど一緒にいられないくらい親友の考え方ととる言動が許せなかったことはハッキリ感覚に残っている。

"きらい"のフィーリングが合うこと

最近分かったことがある。"すき"の対象が重なることは分かり合えることが増えてすごく嬉しい。でも長く深い関係の続く人とは、よくドタキャンする人や返信が遅すぎる人とは相反するとかそういう細かいかもしれないけど自分の譲れないことが共通してるんじゃないかと思う。幼少期に聴いていた音楽が生涯の好みになっていく傾向があるように、好き嫌いの根っこは小中学生のころに感じてたトキメキや違和感、理不尽さからつくられるんじゃないかな。幼少期から付き合いのある人とは年単位で会ったとしても互いに変わらないね〜なんて感覚を持ち続けられる理由にこれがあると思う。

お高くとまるくらいがちょうどいい

周りにいる人が自分の鏡なんて巷ではよく聞くし私もそう思う。付き合う人つまり自分を置く環境って友人関係なら自分で選ぶことができるから、素敵な人ばかりだな〜と思えているうちは理想の自分に近い状態なことが多いなと感じる。大体の私もそう思うことが多かったのだけど、親友の考え方に尊重できない部分が出てきたこと、私を雑に扱うような言動を取るようになったことが大きかった。でも親友と言っているだけに過ごしてきた月日や思い出を振り返ると簡単に割り切れるものじゃなかった。少しの我慢が多くの楽しい時間に繋がっている感覚。でも旅行中やらご飯中に遊び相手の男性(その子は恋人持ち)と電話をすることが重なったある日、とてつもない虚無感に襲われた。


「あれ、一緒に楽しく過ごすはずのこの時間に私はほっとかれている...?」って。


気付いてしまってからはもうだめだった。ここだけ我慢すれば他は大好きなところばかりだからいいと自分を騙していたところから、誰のために自分の価値を下げなくちゃいけないんだろうと。距離を取りはじめた当初はこんなことで大切な友人を失うのはもったいないと本当に苦しかったけれど、取り除ける不幸を遠ざけたことは今の自分を幸せにしていると思えている。ただ一つ気を付けていたいなと思うことは、全ての行動には肯定的な意図があるから悪気なんかこれっぽっちもないことがほとんど。だから私は相手に感じたネガティブな事実を一度だけ本人に伝えるようにしている。それで相手が変わろうとするなら関係を取り直したいと思えるはずだしそうでないならそれまで。雑に扱われてもいい人間なんていないから自分が大切にされてないと感じたら切り離せるものはそうした方がきっといい。


他人が何か私たちに言うことはできても誰も人生の責任は取ってくれない。だから自分だけは自分の価値を信じて高め合っていける友人に囲まれていよう。

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