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休日の訪問者

 ある休日、昼過ぎまで眠っていると、部屋のインターホンが鳴った。
 宅配便も届く予定はなかったし、どうせ部屋番号を間違えたか何かだろうと思いつつ、無視するわけにもいかず、私は渋々ベッドから出た。平日は仕事に出るだけで疲れきってしまうので、休みの日くらいできるだけ長く寝ていたかったのだけれど、起こされてしまったものは仕方ない。
 私は通話ボタンを押して寝ぼけ声で「どなたですか」と尋ねた。するとスピーカーからは、聞き覚えのない男性の声が返ってきた。

「神様の話をさせていただけませんか?」

 結構です、と断ると、思ったよりもあっさりと引き下がって、それ以上はしつこく勧誘されることもなかったが、10分ほど後、郵便物を取りに一階まで降りてみると、オートロックのインターホンの前にはさっきの声の主と見られる男性がいて、まだ他の部屋に勧誘を続けているようだった。
 玄関の前には「勧誘の類は一切お断り」という注意書きがあるのだけれど、私が通りかかっても後ろめたそうな様子もなく、根気よくスピーカーに話しかける彼は、そんなに人の悪そうな人間にも見えなかった。

 私や他の住人からしたら迷惑な客でしかないわけだけれど、彼は彼が正しいと思うこと、彼の神様のためになることをしているだけだったんだろう。

 私はキリスト教に中途半端に関心を持っていて、一時期、Podcastでいろいろな教会の礼拝説教を聞くのが趣味だった。その中でも、ある教会の牧師は著書も何冊か出しているだけあって話がうまく、説教もとても聞きやすかった。ちょくちょく進化論批判があったり、その際に言葉がやや攻撃的になったりすることはあったが、それを差し引いても面白かった。

 しかし、ある週に更新された回を機に、私は聞くのをやめた。
 聖書のどの箇所だったかは忘れてしまったけれど、その日の説教は「同じ事実でも見方によって善悪が真逆になることもある」というテーマだった。
 牧師はその例として、「Black Lives Matterという運動のきっかけになった、ジョージ・フロイドさんと言う人がいますが……」と話し始めた。

「彼はね、薬物や窃盗で何度も逮捕されていたそうです。なんとね、妊婦に銃を突き付けて強盗をしたことまであったそうなんですよ。殺されても仕方ない人物だったんです。それなのに、彼が被害者と言われ、彼を捕まえようとした警官の方が有罪になってしまった。こんなことがあっていいのでしょうか」

 話しているうちに、牧師はひどく感情的になり、声を荒げていた。私はそこまでで聞くのをやめてイヤホンを耳から外し、その場で深々と呼吸をしてから、Podcastの購読を解除した。
 「正しさ」って何なのだろうな、と考え込みながら。

 聖職者と言われる立場の人だって人間だ。政治的思想の一つもあるんだろう。だけれど、彼の場合はそれを正しいと信じきって、さらには彼の「神様」がその思想を支持しているということを疑いもしていないのだった。
 それはもう信仰ではない、別のものなんじゃないだろうか。

「神様」は何も言わない。姿も現わさない。

 だからこそ、何が正しいかを自分で考え続けるか、「神様」を都合よく正義の代弁者にしてしまうかは、それぞれに委ねられている。

「正しさ」なんてきっと、常に疑うくらいで丁度いいんじゃないだろうか。
 伝道しに行く家に、たった今寝ついたばかりの赤ん坊と、睡眠不足の母親はいないだろうか、とか。イエス・キリストが、無実の罪で殺された人間を「自業自得だ」と言うだろうか、とか。
 どうだろう、どう思う?と、対話すること。
 その相手が神様か自分自身かは、あまり大きな問題ではないのだと思う。

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