暗闇の居心地

 昨日、ふと思い立って、自分の本名をGoogleで検索してみた。

 出てきたのは、同姓同名の誰かがやっているFacebookのページに、姓名判断のページ。ずっと後ろの方に、前に所属していた会社のページも出てきた。それだけで、私が今どこでどうしているかがわかるような情報は何も出てこない。

 SNSやLINEのアカウントも、病気で会社を辞めた頃に全て消してしまったので、昔の知人にとっては「そう言えば、そんな人もいたね」と思い出せるかどうか、と言った感じだろうと思う。一度疎遠になったら、もともと人望もなく、付き合っていて楽しいタイプでもない私にわざわざ連絡を取ろうとする人もいなかった。さほど親しくもない知り合いが連絡先から消えた事よりも大事な事、楽しい事、やらなければならない事を、みんな抱えていたのだろう。
 たった一度、以前の職場の人からLinkdInの招待メールが来たけれど、それは登録時に連絡先に入っている宛先に招待メールが無差別に送られると言う迷惑なシステムのせいで、その人が私を思い出したと言うわけでもなさそうだった。

 今の私は一か月に一度通院しながら、短時間のパート労働と、数ヶ月後に更新できるかどうかの当てもつかない障害年金でなんとか暮らしている、名もない非正規労働者だ。変わり映えのしない、「映え」もしない生活を、ただ淡々と送っている。
そんなことをFacebookに書いたところで、知り合いは気まずくなるだけだろうし、私はみじめになるだけだ。

 元のキャリアに戻れる事はもうないだろう。もっと言うなら、「普通の人達」の世界に、病気と数年のブランクを抱えた私の居場所はもうない。私は今いる場所で、ただ死ぬまで生きて行くだけなのだ。
 誰とも繋がらず、誰の人生にも影響を与えず。
 それはそれで現実として受け入れているつもりだった。

 自分の名前を検索した後、ブラウザを閉じようとして、久しぶりにある人のことが頭に浮かんだ。

 あの子はどうしているだろうか。

 それは、もう十年以上没交渉になっている従姉妹のことだった。年齢も私とそう違わない彼女は、私がまだ正社員として働いているときに今の私と同じ病気になり、家に籠もって過ごすようになっていた。数年前に、だいぶ体調が回復してアルバイトを始めたと言う話を聞いてはいたのだけれど、その後どうしているかは全く知らずにいた。

 もしかしたら、どこかに名前が出ているかもしれない。そう思って、私はそれほど同姓同名も多くないだろう彼女の名前を検索窓に入れた。

 出てきたのは、漢字が一文字違いの赤の他人のFacebookアカウントと、立派な学校で講師として働いている人の名前だった。それは一字一句違わず、従姉妹の名前に間違いなかった。

 論文の執筆者として名前が掲載されているページもあった。それが彼女本人なのかどうかのはっきりした確証はないのだけれど、うつ病だった彼女が、周りの支えもあって回復し、長い時間をかけて自分の人生を取り戻したのを想像するのは難しくなかった。昔から利発で、誰からも愛されそうな風貌だったあの子は、多分、私とは何もかも違っていたのだった。

 そして、私は少しだけ落胆している自分に気付いた。

 私は、彼女が暗闇から抜け出して、再び明るい場所で活躍し始めたことを、素直に喜べはしなかったのだった。むしろ、彼女が同じようにキャリアを途切れさせたまま、今も沈んでいることを私は確かめたかっただけなのかもしれない。彼女のような人でも人生はうまく行かないのだから、まして私なんて当たり前だと安心したかったのかも。だけど、そんな下種な期待を裏切って、立ち直ってゆく人は立ち直ってゆくのだ。

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