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醜い




自分の言葉が嫌いだ。


主語が大きくなってしまうのが、自分の人間としての大きな欠陥だと思う。
何でもかんでも抽象的に考えて、その意味を数少ない語彙に閉じ込めてしまう。


だから、noteの更新を重ねていくと、自分の語彙の単調さにあきれてきてしまう。


自分は怠惰な人間だから、努力の必要性を感じたらすぐに逃げてしまう。がんばらなければならない状況に出会ったとき、そこで自分ががんばる意味について考え、欲することを避け、動く理由を無くしてしまう。こうしていれば、何があっても大きく傷つくことは無いから安心でもある。でも、自分を動かすものが減っていってしまうから、だんだんとできることが減っていく。


それはつまり、外界とのつながりを減らしていくことであり、自分のことすらも他人事として見るようになれば、自分とのつながりすら失い、自分の輪郭がぼやけてくる。こんなようなことは以前もここに書いた。


こんな風に逃げ回る術ばかり上達させてきたから、目に入った枝葉はすぐに切り落としてしまう。多くの人に伝わるような抽象化ができているのならまだ良い。しかし、自分の世界に閉じこもってこのような思考をする自分の脳内はガラパゴス化しているから、理解されないことも多いし、自分でも分からなくなることがある。そのようにガラパゴス化した認知に落とし込むことは、自分の色眼鏡で世界を見てしまうことと同義だ。「抽象化」なんてかっこいい言葉で表して良いものではない。




なんだか最近、自分の不出来さばかりが目に入って恥ずかしい。情けない。
「恥ずかしい」なんて、自分は初めから出来の良い人間とでも思っていたのだろうか。思っていたし今でも少し思っているのだろう。いつになったらちゃんと反省するのだろうか。不出来さが自己完結しているならまだ良い。しかし、人との関わりが増えてきて、迷惑をかけてしまうことも増えているような気がする。「迷惑をかける」なんて、自意識過剰だろうか。怖い。やはり自分はどこまでいっても他者の目と自分のことばかり気にしている。


「大人になる」という言葉で表せる変化の一つに、「他者評価を自分の信じる価値と分別し、自分のことだけでなく周りの人々のことも気にかけることができるようになる」ことがあると思う。


それは、他者に評価されている自分と、自分が信じている自分をしっかり持ち、その両方を認めるということである。ようやく少しだけできるようになってきたとは思うが、気づくとすぐに他者評価(の想定。正確には他者からの直接的なフィードバックではなく、他者と自分の関係性から見出した、「他者は自分をこう見ているはずである」という想定である。つまり、この場合の「他者の目」とは自分が勝手に作り出した虚像に過ぎない。)に飲まれてしまうから、気を付けなければならない。


他者評価を気にすること自体は悪いことではない。普通のことである。気にするからこそ、人は「社会性」「社交性」のような気質を身に着け、それなりに人並みに努力ができるようになる。そうして外面を整えることでようやく、人は他者に不快感や恐れを抱かせずに済むようになる。この「外面」とは、見た目のことでもあり、ふるまいのことでもある。他者評価を気にしてはいても、それが適切に行動につながっていればそう問題にはならない。


しかし自分の場合はそうもいかない。自分は承認欲求が高い。それを人に見抜かれてしまうほどには高い。自分が受け入れられていなかったり、認められていないことを敏感に感じ取ってしまうので、そういうことを感じるとすぐに苦しくなってしまう。苦しくなるとすぐ誰かに承認を求めてしまう。




正直、最近かなり苦しい。仲間がいない。楽しい時間はある。あるが、「日常」は、やはりここにはないようだ。仕方のないことと割り切れるようにはなってきたが、最近は顕著になってきて、辛い。居場所って何だろう。自他の境界線はどうしても存在するものではあると思うが、それにしたって程度というものがある。自分のリソースを守るということも大事だと、最近ようやく学んだ。でもそれ以前にただ生活していくだけでも大変だから、そもそも守るリソースもなかなか作れない。ケアにもお金にも頼れない。一人で生きるって大変。虚弱過ぎて毎日何もできない。




「なんで?」と問い続けると、問題だと思っていたことが問題ではなかったり、思っていたほど大したことではなかったことに気づいてしまう。それを繰り返すたび、自分は今後の行動、選択次第で割とどんなところにも行けるのだと思えてしまう。そして、自分はこれまでその努力を怠っていて、これまで経験したつまらないもので自分が否応なく構成されていることに気づかされる。そうして、他の人が歩いてきた道のりを思い、他の人々にはそれぞれに物語や大切なものがあり、自分には何もないのだと思わされ、孤独と罪悪感に苛まれる。




最近、自分に余裕がないことを言い訳に、他者の苦しさ・大変さを尊重できなくなってきている。いろんな人を見て「大変そうだな」と思いながらも、正直、自分が一番苦しいのだと思っている。

人はそれぞれの物語を生きているから、それぞれの大変さがあって、客観的に見た大変さがそれぞれ大きく異なっても、感じる大変さの度合いはそう変わらないのだろう、という論理は容易に組み立てられる。

しかし、そんなものはあくまでただの論理だ。現実はそう単純ではないし、自分の人生が一番大変だと思っているから、代わってくれる人がいるのなら代わって欲しいと迷わず言える。


その上、自分は怠惰で頑張らざるを得ないことを頑張らされて、それでようやく最低限を維持しているだけなので、「大変だ~」って人に愚痴を吐くこともできないし、助けを求めることもできない。


どうしたらいいのだろう。助けて欲しい。何をどうやったら自分が助かるのかも全然分からないが。




今は一人でどこか静かなところに旅したい。





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