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コミュナリズム:解放的代案(5)

国家

国家は時間と共に様々な形態を取ってきた。このパンフレットでその全てを網羅して論じることはできないため、ここでは、国民国家について論じる。国民国家は長く複雑なプロセスを経て西洋文明から出現した。この近代国家を論じる際には、「政治」との曖昧な関係を明確にしておかねばならない。多くの人の心の中で、政治は腐敗と同義になっているが、これは実際には言葉を誤用している。政治が最初に始まったのは古代ギリシャだった。ギリシャ市民は、集団的プロセスを創り、そこに参加して、自分達の地域社会をどのように運営するか決めた。逆に、今日、私達が一般に政治と呼んでいるものは、「国政術」と呼ばねばならない。国政術は、市民に対して権力を行使する実践である。この権力を持つのは、職業政治家と官僚であり、これを支援しているのが、軍隊・シークレットサービス・警察・刑務所産業複合体などである。

国家は社会的強制力を組織したシステムである。その基礎には、私達は全く無能な存在で、社会的意思決定に参加させられない、という信念がある。このシステムの下で生活すると、人の唯一無二で多様なアイデンティティは、「納税者」「投票者」「有権者」へと還元される。市民は、生活に関わる社会的・政治的事柄に見識を持って能動的に参加する者ではなく、受動的なサービス受給者にされてしまう。教育・医療・住宅など重要問題に関する意思決定は、市民の手から切り離され、市民の日常生活とは無縁の官僚・立法者からなる冷徹な網状組織に委ねられる。

このシステムでは人々が代議士に投票できるようになっているが、裕福なエリートが選挙キャンペーンに資金を出しており、選挙は単なる部分的・表面的に重要な諸問題を扱うだけで、政治家はいつも選挙公約を破棄するものだとすぐに分かる。政治家はプロであり、その経歴は権力獲得に左右される。政治家は、自分の意思とは無関係に、すぐさま思い知る。自分の経歴を維持・成長させるには、代表するはずだった人々ではなく、経済的利権のために働かねばならないのだ。

代議制政治とそれを維持する官僚制は、民衆の民主的力と根本的に対立している。国家がどのような権力を得ようとも、それは民衆権力を犠牲にする。民衆が手に入れる権力は、いかなるものであれ、国家を犠牲にする。つまり、国家に変革を求めて大規模なアピールをしたところで、無駄なのだ。こうしたアピールは、国家が自らの権力を強化する上で覆されるだけなのだから。確かに、必要で有益な改良もある。しかし、こうした微々たる改良を行わせる活動だけをしていれば、社会的・環境的諸問題の根本的原因は持続し、悪化し、大きくなり、激化するであろう。

顔を突き合わせた集会で民衆が提起し、議論し、決定したものでない限り、いかなる政策も民主的に正当ではない。代議士は、「アマチュア」、一般人ほども社会的意思決定に対処できない。一般人は、幅広い観点を示し、日常生活経験について詳しい知識を持つ。国家権力の下で暮らす限り、私達は、自分達の生活を十全に管理することも、自分達のニーズを全て満たすことも、抑圧から完全に自由になることもできないのだ。(原註12)

原註12.Biehl, Janet, The Politics of Social Ecology (Montreal: Black Rose Books, 1998) - p.1-10, 88
近代国民国家の歴史については以下を参照:
・The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship

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