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ネストル゠マフノ年表

この年表は、翻訳ではなく、私が作成し、2017年11月25日のロシア革命100年シンポジウムで配布した資料です。ずっと忘れていたのですが、先日ふとしたきっかけで思い出し、掲載することにしました。配布資料では表の形式で示しましたが、noteでは無理そうなので、箇条書きで示します。誤りがあれば、ご指摘ください。参考資料は以下の通りです:

  • ピョトール゠アルシノフ著、マフノ運動史1918-1921、郡山堂前訳、社会評論社、2003年

  • Nestor Makhno, The struggle against the state and other essays, Alexandre Skirda (ed.), AK Press, 1996


  • 1889年10月27日

    • グリャイポーレ村でネストル゠マフノ生まれる。

  • 1906年頃

    • マフノ、グリャイポーレ村のアナキストグループに参加。

  • 1908年

    • マフノ他13名のアナキストがスパイの密告により、テロリズムの容疑で逮捕。

  • 1910年3月

    • 逮捕されたマフノら、軍事法廷で絞首刑を宣告され(マフノは後に減刑)、モスクワのブトゥイルキ監獄に収監される。マフノはこの監獄でアルシノフと会う。

  • 1914年7月28日

    • 第一次世界大戦勃発。

  • 1917年

    • 3月2日

      • 2月革命を受けて政治犯が釈放される。マフノはモスクワで3週間ほど過ごしてグリャイポーレへ帰郷。地元での革命活動を開始。

    • 3月28日~29日

      • グリャイポーレの農民同盟結成。周辺地域にも同様の同盟が結成され、ストライキ支援・地代支払い拒否・地域の農民集会等を行う。

    • 8月

      • エカテリノスラフで行われた地方大会で農民同盟がソヴィエトへ改編。グリャイポーレの地区ソヴィエトは大地主と富農の財産の収用を決定。

    • 9月25日

      • グリャイポーレで行われた郷大会で地主の土地の没収と社会的財産化が宣言される。

    • 秋頃

      • グリャイポーレ近郊にコミューンが建設され始める。

    • 11月7日

      • 十月革命。

    • 11月20日

      • ウクライナ民族主義を掲げるウクライナ中央ラーダがキーウでウクライナ人民共和国樹立を宣言。英仏が承認し、ボルシェヴィキとの関係は悪化する。

    •  12月

      • アントーン゠デニーキンがドン地方で反ボルシェヴィキ義勇軍を組織。

  • 1918年

    • 2月9日

      • ウクライナ人民共和国政府、ブレスト-リトフスク条約締結。

    • 3月3日

      • ボルシェヴィキ政府、ブレスト-リトフスク条約締結。3カ月経たずにウクライナ全土が独墺軍に占領される。

    • 4月末頃

      • タガンログでアナキスト大会開催。少数の戦闘部隊による独墺軍からの武器の徴収・農民蜂起の準備・ボルシェヴィキ支配下の実態調査の実施が決定。

    • 4月29日

      • ヘーチマンの政変。ウクライナ中央ラーダ政府が打倒され、スコロパードシクィイを元首(ヘーチマン)とするウクライナ国が樹立。

    • 6月~7月初旬

      • マフノらがモスクワに到着。アナキストに対する弾圧を確認。クロポトキンやレーニンを訪問し、ボルシェヴィキの手助けで帰郷。マフノは地下でプロパガンダを行いながら、ゲリラ活動の組織化を開始。

    • 9月26日

      • マフノの部隊がグリャイポーレを一時的に奪還。戦闘後に他のパルチザン部隊と出会い、軍の規模が拡大。

    • 10月5日

      • ボリシャヤ・ミハイロフカ村で数千人の敵を30人の部隊で撃破。この戦いでマフノに「バチコ(父)」というニックネームが付く。この後、様々なパルチザン部隊がマフノ軍に参加するようになり、10月から11月までマフノ軍はウクライナ国軍を総攻撃する。

      • ハリコフでアナキスト連盟「ナバト」(警鐘)が設立される。

    • 11月11日

      • ドイツが連合国に降伏し、第一次世界大戦終結。ウクライナの独墺軍が全面撤退。中央ラーダの残党がディレクトーリヤ(指導部)と呼ばれる組織を作りし、ペトリューラ軍を編成。ウクライナ国軍を次々と撃破。

    • 11月20日

      • ウクライナ人民共和国政府のペトリューラ軍の部隊がマフノ軍に投降。

    • 12月14日

      • ディレクトーリヤがキーウを占領。スコロパードシクィイがキーウから逃亡。マフノ叛乱はウクライナ南東部に急速に拡大し、南部のデニーキン軍に対する戦線を形成。

    • 12月26日

      • マフノ軍は、ボルシェヴィキのパルチザンと協同し、ペトリューラ軍が占領していたエカチェリノスラフを奪取。しかし、29日には惨敗してしまう。南部でもデニーキン軍の増援部隊に敗北し、グリャイポーレを占領される。

  • 1919年

    • 1月8日

      • デニーキン軍とドン全大軍(内戦中に作られた反ボルシェヴィキのドン共和国の軍隊)が協同して赤軍と戦い、南ロシア軍を形成。

    •  1月23日

      • ボリシャヤ゠ミハイロフカ村でマフノ叛乱の第一回農労兵地区大会開催。戦況を確認し、ペトリューラ軍に強制徴募された労働者・農民にプロパガンダを行うと決定された。

    •  2月初旬

      • デニーキン軍に対処するため、マフノ叛乱とボルシェヴィキの同盟が締結される。マフノのパルチザンは内部組織機構を保ったまま赤軍に編入することとなり、軍事情況が改善。グリャイポーレを奪還する。

    •  2月12日

      • グリャイポーレ村で第二回農労兵地区大会開催。執行機関としての軍事革命評議会の創設・賃労働による農地耕作への反対・ポグロム(ユダヤ人大虐殺)への反対・ボルシェヴィキへの非難が決議される。これ以降、地域内での住民の結束が固くなる一方、ボルシェヴィキによる抑圧も強化され、ボルシェヴィキの新聞や出版物でマフノ叛乱運動に対する中傷が激しくなる。

    • 4月10日

      • グリャイポーレ村で第三回農労兵地区大会開催。ボルシェヴィキのドゥイベンコ司令官はこの大会を禁止しようとしたが、住民は命令を無視し、軍事革命評議会は命令に抗議する回答を送った。

    • 5月初旬

      • パルチザン司令官のグリゴーリエフが中央ウクライナで反乱を起こす。単なる一揆主義で大規模なポグロムも行っているグリゴーリエフに対して、マフノ軍は声明を発布して非難した。ボルシェヴィキは新聞などでマフノ軍の声明を発表し、称揚していたが、グリゴーリエフ軍が撃退されると、マフノ軍への中傷を再開した。ボルシェヴィキは、デニーキン軍との攻撃を再開するよう命じつつ、軍事物資の補給を停止した。

    • 5月中旬~下旬

      • 前線から退却を余儀なくされたマフノ軍は、6月15日に第四回農労兵地区大会を開催しようとしたが、トロツキーが開催を禁止した。トロツキーはマフノ叛乱を中傷し、地区を封鎖し、マフノを含む指導部を逮捕し、処刑するよう命じた。

    • 6月6日

      • マフノが叛乱軍前線司令官の地位を辞任し、地下へ潜伏。数名の参謀と多くの兵士がボルシェヴィキによって処刑される。マフノは残った部隊の連隊長に、赤軍の指揮下で待機し、連絡があり次第、パルチザン部隊に加わるよう秘密裏に伝えた。

    • 7月27日

      • グリゴーリエフの占領地域に入ったマフノは、グリゴーリエフと交渉し、ウクライナの叛乱運動の課題を議論する大会に参加。2万人の聴衆の前でグリゴーリエフを射殺し、その軍隊を叛乱軍に編入させる。

    • 7月末~8月末

      • 赤軍に残してきた部隊を呼び戻し、合流。約1万5千人の軍隊となる。大量の赤軍部隊がマフノ軍に投降。デニーキン軍が大挙してウクライナ北部に、ペトリューラ軍が東部に押し寄せる。デニーキン軍の暴行を恐れた住民がマフノ軍と共に移動を開始。

    • 9月中旬

      • マフノ軍はペトリューラ軍と不可侵条約を結び、負傷者を治療できるようになる。しかし、諜報部からデニーキン軍が近づいているという情報を受け、ペトリューラ軍が裏切った可能性があると見て、捨て身の戦いをデニーキン軍と行い、デニーキン軍を粉砕。

    • 10月6日

      • マフノ軍は南部へ移動し、デニーキン軍の要港を奪い、物資補給ルートを粉砕。デニーキンはマフノ軍に対処すべく、モスクワ戦線から最良の部隊を派遣。

    • 10月20日

      • 進駐したアレクサンドロフスク市で地区大会開催。政治党派の代表も参加したが、大会全体から糾弾された。志願動員制・地域の自主管理などが議論され、決議された。

    • 11月9日

      • 労働者蜂起と共に、マフノ軍がエカチェリノスラフ市を掌握。

    • 12月5日

      • マフノ軍はデニーキン軍の補給線を破壊し続け、赤軍が前進できるようになる。アレクサンドロフスク市でマフノ軍の代表者と赤軍司令官が話し合いを行った際、マフノ軍にポーランド戦線へ行くよう命令が出たが、マフノ軍は拒否。ボルシェヴィキの指令の動機が分かっていただけでなく、現実的にもマフノ軍の半数以上が腸チフスに感染していたからだった。これを利用して、赤軍はマフノ軍を非合法とし、マフノ叛乱への攻撃を開始。ボルシェヴィキはマフノのパルチザンだけでなく、マフノに共感する住民のいる村や町も攻撃し、大量逮捕・処刑をしていった。

  • 1920年

    • 3月22日

      • 1919年の攻撃に失敗したデニーキンは南部白衛軍総司令官を辞任し、中将ヴラーンゲリ男爵に代わった。

      • マフノ軍は二度ヴラーンゲリ軍と戦ったが、二度とも後方から赤軍に攻撃され、退却せざるを得なかった。7月と8月にマフノ軍は叛乱軍評議会と総司令部の名でヴラーンゲリ粉砕のための停戦をボルシェヴィキに申し入れたが回答はなかった。マフノ軍は三つの地方でボルシェヴィキを攻撃し、赤軍のインフラを破壊。ヴラーンゲリも9月に赤軍を駆逐し、マフノ叛乱地域に接近していった。

    • 10月

      • 4日~17日、マフノ軍はボルシェヴィキ部隊と共にヴラーンゲリ軍と戦い、グリャイポーレを奪還。10日~15日にボルシェヴィキとマフノ叛乱との協定が結ばれ、合意文書が調印された。

    • 11月初旬

      • マフノ軍がクリミア半島との交通を掌握し、ヴラーンゲリ軍の退路を遮断。ヴラーンゲリ軍の後衛を切り崩す。11日にヴラーンゲリ軍が全面撤退。

    • 11月24日

      • 赤軍のフルンゼ司令官がマフノ軍を裏切るよう指令を出す。

    • 11月26日

      • 午前3時、マフノ軍に対する赤軍の攻撃が始まる。ウクライナ全土でアナキストの一斉検挙。

  • 1921年

    • 一時期は優勢だったが、圧倒的な数の差で、マフノは自分の活動地域を離れ、東部へ、そして西部へと逃げ、軍も農民層も疲弊していった。夏の旱魃の影響もあり、マフノは8月中旬に闘争を諦め、残った部隊と共に戦いながらドニエストル川を超え、8月26日にルーマニアに入る。ウクライナに残った部隊のいくつかは、短期間だが尚も闘争を継続した。

  • 1925年

    • マフノはパリに住み、「労働者の大義」等のアナキスト新聞や雑誌に寄稿する。

  • 1926年6月20日

  • 1927年

    • パリでスペインのアナキスト、ブエナベントゥラ゠ドゥルティとフランシスコ゠アスカソに会い、スペイン革命への期待を寄せる。「君たちが闘争を開始した時に私が生きていたら、私は君たちと共に戦おう。」

  • 1931年4月29日

    • スペインの第二共和政樹立を受け、カルボとペスターニャ宛に「スペインのアナキストへの公開書簡」を「プロブジュジェーニエ(覚醒)」誌に発表し、アナキズム勢力の団結と農民同盟創設の重要性を訴え、ボルシェヴィキとの団結はしないよう警告。

  • 1934年

    • 2月12日

      • フランスのゼネスト。デモ行進に参加し、重い風邪をひく。

    • 3月16日

      • テノン結核病院に入院。

    • 7月25日



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