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コミュナリズム:解放的代案(8)

直接民主主義

コミュナリズムは、人々に、能動的市民権が持つ様々な役割を通じて自分達の生活を管理するよう呼びかける。ここでの市民権は、国会議員に手紙を書いたり請願したりするという意味ではない。そうではなく、社会立法の決定に直接参加する権能を全ての人が持つという意味である。市民的美徳の発達と万人の福祉への献身を通じて、自我と民主的地域社会は相互に強化し合う。従って、人は、ある決定が自分自身にどのように影響するのかだけでなく、他者にどのように影響するのかも考慮して、社会的意思決定に参加するだろう。(原註31)

こうした理由から、コミュナリストは、その地方で唯一の政策策定機関として地区や町レベルで直接民主的立法議会を創設するよう主張している。こうした議会は、定期的に開催され、明確な議会規則に従い、個々人に発言権を与えると共に、許容範囲の時間内で会議を行わねばならない。また、全ての市民が会議の議題を発議できるようになる。参加そのものによって得られる教育と経験から、その人の参加に対する自信が自然に生まれるはずである。さらに、社会全体が満場一致で合意して決定がなされるなどあり得ないと認識しておかねばならない。ある種の多数決は当然なだけでなく、むしろ望ましいのである。多数派の決定に対する公的な異議は、歓迎され、奨励されねばならない。反対意見は新しい考えを生み出す力として機能するからだ。大多数が支持しない意見を持つ人達は、理性的対話を通じて自分の立場を常に擁護する自由を持ち続ける。それぞれの議会の細目と規則は、注意深く作成された規約に基づいて民主的に確立されねばならない。(原註32)

地元での直接民主主義を主張しているからと言って、全ての市民が会議に出席する必要があるとか、すべきだとかいう意味ではない。出席率すら重要ではない。平時には、出席者が非常に少ないと思っておいた方が良い。論争の的となる議題がある場合には、もっと多くの人が出席すると思われる。ここで重要なのは、全ての人が好きな時に自由に参加できるようにすることである。(原註33)

直接民主主義の実現可能性を考えるにあたり留意すべき重要な点は、政策決定と政策執行の分離である。全ての政策は市民の議会だけが決定すべきである。こうした政策の執行は、独自の政策決定権限を持たない代理人が行う。その代わり、代理人に与えられる行動と権限の範囲を示す指令が公布される。全ての代理人は、与えられた指令に従わなかった場合、議会で直ちに更迭される。行政執行代理人は、選挙で選ばれることもあれば、意識的にランダムに選ばれることすらあるだろう。社会的行政の職業化や集権化を防止するためである。政策決定とその執行の分離は重要である。いかなる時も、地域社会の政策を執行するよう選ばれた代理人が社会的政策を独自に決め始めると、権力が市民の手から離れ、その結果、新しい国家の土台を作ることになってしまうのだ。(原註34)

議会政策をさらに理解するために、二つの別々な事例を考えてみよう。一つ目として、特定の行為を行わないよう人を制限する政策があり得る。例えば、特定の森林地区で木の伐採を禁じる政策が承認されるかもしれない。もう一つ、人に特定の行為を許可する政策があり得る。一例は、河川の上に橋を建設することを議会が決めた場合である。技術者チームに様々な橋梁提案書を作る任務が与えられ、議会に選んでもらうことになるだろう。様々な提案書を全ての人が理解できるよう明確な言葉で説明するのは技術者の責任だが、どの計画を実行するかの決定は議会が行うのである。(原註35)

確かに、政策が違反される場合もあろう。ただ、こうしたことが生じるのは、現在の社会よりも遥かに少ないはずである。現在の政策は、非人間的権力構造と苛酷な貧富の格差を維持するために存在しているからだ。それでもなお、政策違反が疑われる場合には、嫌疑者に知られている人々からなる民衆審査団が調査を行わねばならない。ある人が地域社会に対して物理的な危険をもたらすと明らかになった場合、その人は、生活向上機能を持つ快適な治療センターに拘束され、カウンセリング・ケア・生産活動を提供されるだろう。刑務所や監獄は一切あってはならない。この拘束の重点は、当該個人が元気に社会復帰することに置かれねばならない。

直接民主主義に関わる重要要素がもう一つある。直接民主主義は社会の大規模地域にわたる統治を排除しない。実際、このシステムは、中央集権国家を必要とせずとも、地方レベルに、地球規模にさえも拡大できる。これを行うために、様々な都市と町は、地元レベルで行政を扱うのとほぼ同じやり方で、指令を受けた行政執行代理人団を形成するだろう。こうした自治体間協力の形態を連邦と呼ぶ。連邦の政策も市民によって直接決められるが、この場合に限り住民投票を使う。住民投票の結果は、投票総数の過半数を得て決定される。それぞれの都市は、こうした市民全体の決定に従わねばならない。その結果、市民は広域的な権力を持つことになり、一つの自治体が環境被害や人権侵害を引き起こさないようにするのである。市民に対して権力を持つ中間的機関を創り出さずとも、連邦を通じて全ての市民に社会を運営する集団的権力が与えられるのだ。(原註36)

自治体間の対立を解消する際には、非暴力の戦術を重視すべきである。必要ならば、仲介や仲裁が対立中の地域外から提供されねばならない。社会全体で権力と富の不平等を廃絶した以上、おそらく、こうした対立は稀になるだろう。自治体が物理的に自衛しなければならない情況が生じた場合、防衛組織の中心は、ヒエラルキー型のプロの軍隊とは対照的に、民衆集会が統括する民主的民兵となるだろう。

原註31.Toward an Ecological Society - p.47, 238, 253-254
・The Politics of Social Ecology - p.86-88

原註32.The Politics of Social Ecology - p.56-59, 131

原註33.The Ecology of Freedom - p.435
・The Politics of Social Ecology - p.157-158

原註34.The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship - p.246-247

原註35.The Politics of Social Ecology - p.105-107

原註36.Bookchin, Murray - "The Meaning of Confederalism"
・The Politics of Social Ecology - p.95-109
(邦訳は、連邦主義の意味。だいぶ前に私が訳したもので、読み直すと手を入れたくなるのですが、そのままリンクを貼っておきます。)

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