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歴史は街道と共に「15の街道からよむ日本史」

「15の街道からよむ日本史」安藤優一郎著・日経ビジネス人文庫2023年12月発行

著者は1965年生まれ、歴史研究者、近世政治史専門である。

街道は軍事的、政治的に利用されただけでなく、人々の経済、文化活動を支えた道である。その意味で日本の歴史の証言者である。江戸幕府は日本橋を起点として五街道を定めた。

本書は五街道以外に鎌倉街道、北国街道、伊那街道、伊勢参宮街道、熊野古道、西国街道など15街道を取り上げる。それぞれに歴史があり、人々の喜怒哀楽があった。

東海道の箱根峠ルートは平安時代初めの802年富士山延暦噴火により、従来の足柄峠ルートが通行止めになったため、変更された。小田原宿、箱根駅伝も富士山噴火なければ存在しない。

中山道は山道で険しいが、東海道と比して大河がなく、川留めロス、日程の変動、旅費削減から選ばれた。和宮降嫁行列も中山道を選定。千数百人の行列でも、一か月余りで江戸に到着できた。

三河岡崎と信濃伊那を結ぶ伊那街道は別名「中馬街道」と呼ばれた。「中馬」とは農民のバイト的運送業者の呼び名である。本職は「馬借」と呼ばれる。終点まで積み下ろしせずに運び、荷崩れなく運賃も安い。

江戸時代、中山道の宿場問屋業者から差し止めの訴訟が幕府に出された。幕府は多少規制をするも、自由競争の原則を守った。北国街道同様に塩の道と呼ばれ、日本海、太平洋から多くの塩が運ばれた。塩田開発も揚浜製法から入浜製法に進歩した。

四国遍路は平安時代に開始という説もあるが、基本的には元禄時代以降以降、庶民の旅文化の定着から、ブームとなった。伊勢参り同様、通行手形不要、街道の接待で、無一文でも旅ができた。

長崎街道は、オランダ商館長江戸参府から街道が整備された。ドイツ医師・ケンペル、シーボルトの紀行文で有名。海外文化、医療技術の導入に役立つと同時に政治問題ともなった。

庶民が裕福になると、庶民中心の旅文化が発達する。一方、武士は規制が多く、プライベートの旅は制限された。幕末の河井継之助の九州長崎、西国への遊学の旅はむしろ異例のケースである。

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