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戦国時代の武将の日々「松平家忠の日記」

「家康家臣の戦と日常・松平家忠日記をよむ」盛本昌広著・角川ソフィア文庫2022年10月発行

著者は1958年生まれの歴史学者、専門は日本中世史、近代史。神奈川大学、慶応大学、中央大学で非常勤講師を務めた。1999年発行「松平家忠日記」角川選書の文庫化である。

徳川家康一族で、家臣でもある松平家忠は、天正5年(1577年)10月から文禄3年(1594年)まで17年間にわたる毎日の出来事、見聞きした情報を日記に書き続けた。

松平家忠は愛知県幸田町にある深溝城主・深溝松平家4代目当主である。家康は桶狭間の戦いで今川から独立、信長と同盟を結ぶ。その後三河統一で、深溝松平家は活躍した。

家忠の父は松平伊忠、母は今川の武将で三河国宝飯郡上ノ郷城主・鵜殿長持の娘、妻は三河刈谷城主・水野忠分の娘である。

家康の関東移封で、家忠は忍城主(埼玉県行田市)となる。1年半後、上代(かじろと読む。現在の千葉県東庄町、旭市一帯)へ国替え、更に小見川(千葉県香取市)に国替えとなった。

日記は、武将の合戦への備え、茶・能・連歌を愉しむ様子など、一武将の日々の生活、秀吉政権による不条理な要求に対する愚痴、家康の動向など、貴重な記録である。

「どうする家康」では、徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝)などが中心である。徳川一族である深溝松平、竹谷松平、形原松平などはあまり出てこない。

日記の始まりの天正5年とは、長篠の戦いから2年後、勝頼は高天神城を足掛かりに、再び家康の遠江国へ攻撃を仕掛けていた頃である。

日記最後の文禄3年とは、関ヶ原の戦いの前哨戦、三成の伏見城攻撃で家忠が討ち死にした慶長5年(1600年)6月の6年前で、日記は終わっている。

戦国武将の姿と言うと、派手な戦闘が思い浮かぶ。現実の武将の日々は「城普請工事」が中心。駿府城普請、武田・北条防衛のための出城勤め、河川堤の工事負担など、工兵隊的仕事である。

秀吉への愚痴は、朝鮮侵攻の拠点・名護屋へ人夫派遣、金銭による税賦課負担が厳しい。関東の徳川に出陣要請はないが、家来の一部は名護屋護衛に出陣している。

日常生活は家忠の地元に連歌師を招き、連歌会を開催。そのほか「幸若舞」の舞人(扇を持って舞い、平家物語等演じる)、琵琶法師などを招く。碁、将棋の絵も日記に描かれている。将棋の駒は現在とほとんど同じである。

天正8年の日記に日食、月食の記載がある。その年は1年に3度も日食、月食が発生した。発生時刻は現在の科学データとも正確に一致している。

同僚、主君家康への接待、贈り物など、上司、官僚、取引先への接待は現在と同じ。石田三成は家康接待の不始末で信長に怒鳴られた。接待は武将にとっても重要な仕事である。

家忠最期の仕事は京に上り、家康側の関西拠点・伏見城普請および城の留守居役である。最後はここに籠城して、鳥居元忠と共に討ち死にした。それは「三河武士の鑑」と評された。行年45歳だった。

上記見出しの写真は愛知県幸田町のJR幸田駅近くにある深溝城跡の石碑。今は住宅地となり、城跡の面影はない。

深溝松平家の菩提寺・本光寺もある深溝松平家四代の墓。向かって一番左が家忠の墓である。


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