月面世界とのおだやかな時差

 あなたの故郷の街はあちこちに墓地を有している。それぞれの墓地には20人くらいのひとが眠っていて、天体の名がつけられていた。

 12月の中旬に届いた手紙には、「月で待っています」とだけ綴ってあった。封筒に書かれたわたしの名を読んでみると、なるほど、あなたのお姉さんからのものであると気がつく。年末にお休みを取ったので、あなたの故郷に行ってみることにきめる。カレンダーにそのことを書き込んで、もう一度手紙を見る。
「月で待っています」
 その文字は一見ただの青色に見えるが、角度を変えると金色にひかった。
きれいなインクを異国から個人的に輸入して、いろんな人に手紙を書くのが趣味なんだと、かつてあなたのお姉さんは教えてくれた。死ぬまであの閉鎖的な田舎から出ずに生きていくことに決めたお姉さんは、精神を病んだあなたのお父さんとお母さんと、狭い家の中、毎日おなじような会話をなんどもなんども繰り返しながら、いろんな人に手紙を書き続けている。だから、お姉さんの字は緻密な美しさを湛えていた。語りたいことの少なさに対してあまりに長すぎる、その一生涯を感じさせるお姉さんの字。手紙をいただくたび、わたしはいつも胸のつぶれるような気持ちになるのだった。
「絵理ちゃんって、すてきな名前ね。どちらもバランスが取りにくくて、何回も何回も練習できるもの」
 初めて会ったとき、お姉さんはわたしにそう言った。封筒に書かれた「絵理」の、活字と見紛うような精緻な字形に、そのことを思い出したのだった。


 あなたの故郷の街はあちこちに墓地を有している。街の偉いひとがそこに墓地の多いことを誇らしく思っているから、墓地は増え続ける。
 その街がもつ唯一の駅は無人で、ホームのいろんな場所に白い砂が溜まっていて、春になるとそこから野花が咲く。でも今は12月だから、駅はいちめん灰色だった。同じ電車から降りてきたひとのことを見てみると、ほとんど全員が腕に花を抱えていた。みんな、お墓参りのためにここへやって来たんだろう。
 駅前のバス停には花を抱えたひとびとが列をなしていた。
 あまりにも墓地がばらばらに街に巣くっているので、その街には、様々の墓地を巡るためだけに走るバスがある。1日に1本しか出ないそのバスは、駅を夜の12時に出発する。あなたから話には聞いていたけれど、実際に乗るのは初めてだった。
 冬の夜の、つめたい風に耐える。ひどく寒いけれど、バスを待つわたしたちが互いを励まし合うことはなかった。近くに寄ることも、言葉を交わすことも、目線を合わせることさえなかった。だって、わたしたちは一人でここに来たわけじゃない。わたしたちは花を抱えていた。働いて稼いだお金で花を買ってここにいるのだ。
 腕時計を見る、バスが来るまであと8分もある。頭上から降り注ぐ白熱灯のひかりに照らされた指先が真っ赤だった。ぎゅっと目をつぶって、風に耐える。わたしはこの街に一人で来たわけじゃない。

 到着したバスに乗り込んで、その中に満ちている空気が暖かいことに安心した。あなたが眠るという月は終点近くだそうなので、二人がけの椅子の奥の方に座る。膝の上に荷物を置いて、窓に寄りかかって、外を見つめる。
 こんな時間にこの街に来たのは初めてだった。あなたのご両親に挨拶をするために訪れたのが最初で、その次には春、あなたとお花見をするために一度。そのあとここで開催された花火大会のためにもう1回来て、そうしてこの間、あなたのお葬式のために訪れたのが最後。だから、これが5回目になる……
 この街はいつでもどこかよそよそしかった。その印象は何回来ても変わらない。あなたが生きていて、数え切れないくらいこの街に足を運ぶことになったとして、この薄い幕の降りたような閉塞感がなくなったとは思えない。点在する死者の領域は、わたしのような余所者を拒んでいるように見えた。
 死者とは もう死んでしまったひと。永遠にわかり合えることはないし、永遠に抱きしめ合うことのできないひと。救いの手を差し伸べることも、思い出を新しくつくることも、永遠に叶わないひとのこと。
 声をかけられて我に返る。
「隣、良いですか」
「あ、はい、もちろん」
わたしが返事をして姿勢を正すと、声をかけてきた女性は一礼して隣に腰掛けた。綺麗な黒髪を耳より下の位置でひとつにまとめて、温厚そうな目元をした40代くらいの女性である。
「どちらまで?」
「月です」
「じゃあ、私の方が少し先だわ。水星で降りるの」
「そうなんですね、よかった」
「ええ。ふふ」
 こそこそとした会話はそこで終わり。彼女はわたしから、手に持ったバッグへと視線を移した。あとは、運転手さんのアナウンスと、バス停の名前だとかを告げる女の人の録音された声と、後ろの方に座っている老夫婦の会話だけがバスの中に響いているだけ。バスはその全身で冬の風とわたしたちとを隔てたまま、ゆっくりと動き出す。
『次は……北極星、北極星でございます』
 

 あなたの故郷の街はあちこちに墓地を有している。墓地、永遠に固定された住宅街のご近所さんだから、人数は少ない方が良いっていうのは、なんとなくわかる。
 バスが前に進んでいくにつれ、街灯や信号のひかりは次々背後に逃げていく。バスは、その側面をほとんど透明にしているすてきな乗り物だ。腕時計を見ると12時7分。もう0時って言うのが正しいんだろうか? 
 真夜中、大きい窓たちはその面積の大半を、塗り込められたみたいに真っ黒にしている。そこへ街灯や住居の放つまばらで曖昧なひかりが登場してすぐに去っていくのだから、それは時折流れ星に見えたりなんかして、宇宙空間にいるみたいな感覚になる。
 目だけ動かしてバスの中にいる人々の顔を見てみると、当然そこに知った顔はなかった。誰もが、この静かな街で眠る静かな死者に会いに、また別の遠くの街からやって来たのである。バスの中は、実際になんにも音がしない、とかそういう意味じゃなくって、きわめて無音だった。隣に座るおばさんの表情をちらと見てみると、これもまた静かな目をしている。彼女の目は今この空間を見ているのではない。このバスに乗る誰もがそうで、皆ここではないどこか、そしてもはや今この時間には存在しない誰かのことを見つめている。


 仕事から帰ってきて、鍵を鞄から取り出す。どちらも残業の多い会社に勤めているから、日々、あなたが先に家に着いていることもあったし、わたしが先に着いていることもあった。だから帰宅した今、あなたが家の中にいないことは何も不自然なことではなかったのだけれど、玄関の扉を開けて、暗い家の中を見た瞬間、悪寒が走った。電気をつけて、あなたの仕事用の靴があることに気がつく。
「帰ってるのー?」
 答えるものはない。廊下を進んでリビングに入ると、空の食器が机の上に残されていた。食事を終えたらすぐに片付けをするひとなのに、珍しいな、と思いながらそれを片す。あ、このところ疲れた様子であったから、もしかしたら眠っているのかもしれない。……まさか、会社を早退したんだろうか?
 水を止める。物音を立てないように注意を払いながら寝室に入ると、そこにあなたはいなかった。心臓がバクバク言っている。寝室の引き戸を乱雑に閉める。家中、無音だった。狭い家に住んでいるのだ、あなたが家にいないことはもうはっきりとしている。
 それからわたしは狂ったように、色んなところに連絡をした。あなたの職場やSNSに載っていたお友達、元恋人まで探し出して。どこからも手がかりは得られなくって、それからわたしたちの住む街の色んな場所を訪れたけれど、当然あなたが見つかるはずもなく。あなたのお姉さんに電話越しに宥められ、たぶん疲れたのもあって落ち着いて わたしは
いったん眠ることに決めたのだ。汗がひどかったからお風呂に入ろうと思って
もう、眠たかった。単純にね。だって月曜日の夜だったんだよ 関係ないか。
時計を見ると、2時を過ぎていた。丑三つ時だ、と思って、部屋の空気がどことなく不気味なものに変質する。帰ってきたのが10時半とかそのへんだったから、4時間も経っていないのね。
スーツを脱いで、ぼろぼろになってしまったストッキングを捨てる。浴室の扉を開けると、うすく開いた窓の外には濃い黒色の夜空があって、青白い月だけが煌々と輝いている。その美しい絵画を背に、あなたが首を吊っている。

 あなたの死体を第一に発見したのはわたしだった。


『次は……水星、水星でございます』
 隣のおばさんが《止まります》ボタンを押して、一斉にバスの中のあちこちが紫にひかる。
『次、止まります。バスが止まるまで……』
 彼女はごそごそと鞄の中を探り始める。その一連の動作を横目で見て、また視線を窓の外に戻す。黒の背景に転々としたひかりが駆けていくその美しい窓に、《止まります》の紫色が点々と映っている。そうしてより一層、街は白と黒にひかり始める。わたしは鯨幕に飾られたあなたのお葬式を思い出している。
 来場する人たちがみんな黒い服を着ていて、異常な光景に寒気がする。自殺だったらしいよ、後方に座っている人がこそこそと噂をしていて、ああ、ぞわぞわする。皆さん、あのひとの何を知っているっていうんですか。棺の中のあなたの顔には白い布がかぶせられていて、わたし、当然みたいに黒い服を用意して着ていった。来場した人々に挨拶をしたのはあなたの父親で、それはすごく立派な挨拶だった。彼の話を聞いて泣き出した人が何人か居て、俯くと、ぎゅっと握りしめた自分の拳が視界に入る。
 あなたは生きていたとき、よく父親の話をした。お父さんは極めて厳格な人で、様々な方面で他人の尊敬を集めていたけれど、お酒が入ると人が変わった。幼少の頃から暴力を振るわれていて、とっくに成人した今でさえ、その頃の父親の幻覚を見る日があるんだそう。いま、あなたのお父さんは気が違っていて、昼夜を問わずあなたにひどい言葉を浴びせかけるために電話をかけてきた。あなたはお父さんの電話に出るたび憔悴した様子になって、わたしを抱きしめた。
 彼がどれほどあなたのことを深く傷つけてきたのか、あの会場で一番にわかっていたのは絶対にわたしだった。あなたのこと、一番にわかっていたのはわたしだった。……

 あなたの死体を第一に発見したのがわたしだった。その揺るぎない事実が、どんなに嬉しかったことか。


「ありがとうね」
 ぺこりと礼をしておばさんがそう言ったので、わたしも小さく礼を返す。彼女が去って行った空間に荷物を置いて、深呼吸をした。
 当然のことなのだけれど、新たにバスへ乗ってくる人はいない。腕時計の針は0時40分を過ぎていた。墓地があまりに多いので、その全てを回るってなると、相当に時間がかかるのだ。帰りはおおよそ1時間後、丑三つ時になったら同様にバスが回ってきてくれるんだそう。
 1時間。あまり意識していなかったけれど、冬の夜、外で1時間を過ごすって、結構厳しいかもしれない。あなたにお会いするからと、きれいなだけで大して暖かくないコートを着てきてしまった。でも、墓地が寒くて凍えて死んでしまえるんなら、本望なのかも知れない。
『次は……月、月でございます』
 ようやく月が近づいてきた。ボタンを押して、降りる仕度をはじめる。
 あなたの故郷の街はあちこちに墓地を有している。死者の数は永遠に増え続けていくのだから、墓地はいつかこの街のすべてを、きっと駅さえ吞んでしまう。
 お金を払ってバスから降りる。月で降りたのはわたしだけだった。風の冷たさを再確認させられて、首元のマフラーを鼻のあたりまでずり上げる。
去って行くバスを見送る。この街が宿痾に倒れてまるごと墓地になってしまったんなら、あのバスはどこから来てどこへ去って行くんだろう?
 どこからともなく花を抱えた人をぎちぎちに乗せて来て、どこへも行けなくなって街をぐるぐる回り続けるバスを思う。腕に抱えた花からはなんの香りもしなかった。透明なフィルムに包まれた、死者のために手折られた死の群れから、いい匂いがしては困るのだけれど。


 あなたのお墓を探し出して、掃除をはじめる。水を汲んで、持参したタオルを濡らして、スマホのライトを頼りにお墓を拭いていく。あなたのために建てられたお墓だからまだ新しく、それほど汚れてもいないのだけれど、きわめて丁寧に。1時間あるのだ、どれだけ時間をかけたって足りないくらいだろう。
 墓石の、つやつやとした表面がどこか悔しい。わたしはあなたの頬がいつでも荒れていたことを思い返している。お墓を構成するものはどれも整った形をしている、墓石の綺麗な四角、そこに刻まれたあなたの名字も綺麗で、花立の銀色はタオルで拭き上げると夜空を反射した。その荒れた頬を撫でるのが好きだった。頬をしつこく撫でると、あなたは照れているのか苦く笑って、わたしのことを咎めるみたいに見つめる。触れると痛むところがあるらしく、たまに微かに顔を顰めるの。その繊細な表情の起伏が愛おしくて、わたしは何度も、生きたあなたの頬を撫でた。
 もう、なんにも見たくなくなってしまって、ライトを消す。月の明るい夜だから、暗闇に慣れてくれば案外どうにかなりそうである。スマホをバッグにしまって、水を汲むために花立をお墓から抜き取る。きっとご両親かお姉さんが供えたんだろう、萎れた花が挿してあったから、まずはそれを捨てようとして、茶色くなったその茎に手をかけて、はじめて気がつく。
 花立に張った水の表面が凍っていた。ぐっと力を入れて抜き取ろうとするけれど、花が動く様子はない。
「……あれ?」
 かなり強い力で花を引く。顔を近づけて見てみると、どうやら凍っているのは表面だけで、その奥は水の状態のままみたいだ。
 今度は反対に氷を押してみる。透き通った壁はびくともしなかった。そんなに冷え込んでいるんだろうか? いや、そもそも氷って、寒ければ寒いほど硬くなるようなものではないだろうし。
 片方の花立を手に、立ち上がる。どこかに氷を割れるような尖ったものはないだろうか?
 お墓とお墓とが成す狭い道を、静かに歩きながら尖ったものを探す。夜天光に照らされた墓地はどこかきらきらとしていた。一歩踏み出す度にどこかがひかって、もう一歩踏み出してみればそれは立ち消え、別のどこかがひかるのだ。年末だからか、わりとどのお墓にも新しい花が供えられている。月は、比較的新しい墓地であるらしかった。清浄な雰囲気にあふれたこの地で、わたしはたったひとりの生者だった。
 墓地をゆっくり一周してみたけれど、どこにもめぼしいものはなくって、またあなたのお墓の前に戻ってくる。手に持った花立がぞっとするほどに冷たい。指の感覚なんてとっくにないのだけれど、それでも依然として冷たかった。
 しばらくその場で途方に暮れてから、ふと思い当たる。
 そうだ、マッチを持っているじゃないか。お線香と一緒に買ったはず。どうして思いつかなかったんだろう、いちばんシンプルな解決法って感じがするのに。
 花を切るための鋏やら予備のタオルやらが入っている袋を手探りして、マッチを取り出す。火をつけて、花に移ってしまわないよう注意を払いながら、氷の表面にそれを近づける。
 すると火は、たちまち花に吸い寄せられるように形を変えた。
「え」
 驚いているうちに、火は一気に花を飲み込む。消そうとする間もなく、信じられないスピードで花は金色の砂に姿を変えて、火はしんと消える。
 背中の方向から吹いていた風がいきなり向きを変え、わたしの頬を殴りつけるように吹く。その変化に従って、わたしたちを取り囲む墓地中の花がその傾きの方向を変えた。花の残骸、金色の砂は、風に攫われる。呆気にとられながら、砂が消えていった暗闇を見つめている、……

……花が、傾きの方向を変えた?

 振り向く。そんなわけない。だって、花立はこんなに硬く凍り付いているはずなのに。
 手に持った花立を取り落とす。大きな音が鳴った。隣のお墓に立ち入って、花立に手を突っ込む。
 その表面はすんなりとわたしの指を受け入れる。それは、凍ってなんかいなかった。その隣のお墓でも同じことをすると、花立の中は当然みたいに水。逆の隣も、その隣も、あなたのお墓以外の花立は凍っていなかった。
 あなたのお墓のもとへ戻ってくる。転がっている花立を拾い上げ、その表面を見る。
 それまで頑なに捕らえていた花を失って、氷の表面にはぽっかりと暗い穴が空いていた。
 小さな小さな空白。わたしはそこに指を突っ込む。
「どうして……」
 穴はギザギザに広がって、月光に青白く照らされたわたしの肌を裂く。赤い血が流れていって、氷の表面はわたしで溶かされる。わたしの指は水面に到達する。その温度の、生き物みたいな生ぬるさに息を呑む。

あなたに、花を届けるの。
紛れもないわたしが、月面に到達する。
こんな日を、ずっと夢見ていたの、…………



「はーっ、はーっ、はーっ……」
 自身のうるさい呼吸に、幻が、ふっと解ける。わたしはまた浴室で座り込んでいた。
 空の浴槽、その底にべったりとつけていた額をゆっくりと上げていく。髪から何かが滴っていることに気がつき、触れて、月光に翳してみるとそれは血液だった。
 うんざりしながら腕を見ると深い切り傷がたくさんあって、血はまだ止まっていなかった。止血のために浴室から出る。立ち上がって初めて気がついたが、足下に鋏が転がっている。多分、これで切ったんだろう。
 手探りで見つけたバスタオルを腕に押し当てる。電気をつけて脱衣所の鏡を見てみると、幽霊みたいな姿のわたしがそこにいる。
 よそ行きのコートを肩に引っかけて、ぐちゃぐちゃと巻いたマフラー、どちらも淡い色だから血に真っ赤に汚れてしまっていて、これは捨てるしかないな、と思う。綺麗に洗えたとして、着る気にはなれない。
 どちらも脱いで、その下に着ているのが寝間着だったことに一人ですこし笑い、浴室に再び立ち入って、片付けをしていく。

 あなたの死体を発見したあの日に酷似した月が、浴室の窓から見えることがある。そういう日には必ず、あなたに関連する幻に襲われて、夢遊病っていうんだろうか、自分でも何が何だかわからないうちにあなたの後を追おうとしているのである。
 今日は、月と名のついた墓地へあなたに会いに行く幻を見た。また、月。
幻の中、あなたはわたしを何度も月に招く。わたしはすんなりそこへ足を運ぶことができるのだけれど、あなたに会えたことはたったの一度もない。幻はいつも丑三つ時に解けてしまって、わたしは決まって浴室にいる。浴室だから、片付けが楽だ。わたしはここを何にもなかったみたいに片付けて、朝が来たら、生者の社会に戻ることができるの。
 あなたの死の原因は紛れもなくわたしにあった。あの時、あなたのことを救い得るのはわたしだけだったのだ。ふたり、遠くに逃げてしまえば良かった。それが叶わなくても、あなたとお父さんとの関係をわたしが仲裁するのでも良かったし、いえ、もっと簡単に、あなたが思い詰めた顔をしているとき、もっと話を聞けば良かった。
 今更考えても、もうどうしようもないことなのだけれど。きらびやかな魔法は12時で解けるって相場が決まっている。解決すべき問題をずるずると先送りにして、夢みたいな日々の永続を信じて、その結果大切なものを失ったわたしのことをきっと、あなたが怒り続けてくれているってことが、ただ一点幸せだった。
 浴室は充分きれいになったので、床を擦っていたスポンジを置き、水を止める。立ち上がることができなくて、開いた窓の奥、変わらず美しい月を見る。時計を見るまでもなく今は丑三つ時なんだってなんとなくわかって、わたしはまた、あなたの死体を発見した瞬間のことを思い返している。

 死者とは もう死んでしまったひと。永遠にわかり合えることはないし、永遠に抱きしめ合うことのできないひと。救いの手を差し伸べることも、思い出を新しくつくることも、永遠に叶わないひとのこと。

 涙が頬をひとすじ流れる。月、あなたの星はまた、怖いくらいに美しかった。そこでは時間がゆっくりと流れているから、わたしたちの過ごした幸福な日々が、きれいなままで保存されている。手を固く繋いだままお別れをしたわたしたちだから、わたしは生者として、その時差に頸を断たれるように生きていくしかないの。
 涙を拭う。立ち上がって、月と向かい合いながら、わたしは朝の到来を待った。朝日に月夜が塗り替えられるそのときまで、清廉な月光を全身に受けつづけていた。

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