まわれまわるな

「行ってきます!」
 玄関の扉を開きながら声を張り上げてそう言うと、行ってらっしゃあい、という母の明るく間延びした声が返ってくる。少しして、気をつけろよー、と父の声。扉を静かに閉めて、陽に目を細める。いつも通りの朝である。

 自分の両親がいわゆる仮面夫婦であるということには、わりと早い段階で気がついていた。
 小学生の頃だっただろうか。夏のある寝苦しい日、悪夢を見て夜中に目を覚ましてしまった僕は、水を飲んで心を落ち着けようとリビングへ向かった。自室は二階にあるので、一階にあるリビングに行くためには階段を下がっていかなければならないのだけれど、段をひとつひとつ降りていくにつれて、甲高い女の人の声が近づいてくる。僕は初め、それを悪夢の続きだと思った。
「……じゃん! 何回も言ってるよね?…………」
 知らない女の人が家の中にいる。頭の中にはなんとなく魔女の像が浮かんでいた。そういう声が響いている。魔女、恐ろしく怒りに満ちた目をした異形の女、が家の中で大騒ぎをしている。頭がぼんやりとしている。
「無理言わないでよ!……どうしていっつも私ばっかり……」
 泣き出しそうなくらいに怖かった。水はいいから、とりあえず母さんを起こそう。母さんを起こして、幼少期よくそうしてもらったように慰めてもらうのだ、いや、まだ夢を見ているのなら夢から覚めるのが先か。そもそも魔女はどこにいるんだ、階段を下がるのは正解なんだろうか、僕はどうしたら悪夢から逃げられる?
「だから子どもなんか産みたくなかったの!」
 魔女ははっきりそう言った。僕の家の階段の、下から四段目。四段目の階段に爪先を触れた瞬間に、その声が母のものであると気がついて、立ち止まる。
「ンなこと言ったって仕方ねえだろ!」
 男の怒号。父の声である。すう、と、胸のあたりが冷たくなった。そんな感覚初めてだったので、その瞬間のことは特に鮮明に覚えている。夏の深夜。汗をひどくかいていて、裸足で触れている階段はいやにひんやりとしていた。今でも階段を裸足で通るときには、四段目のそれだけがひどく冷たいような気がしている。
 気持ちの悪い恐ろしさがあった。幼かった僕にとって家族というものは、揺るぎない信頼によって成り立つ唯一無二の愛の聖域であったし、僕の前で繰り広げられる両親の間の会話はいつだって穏やかでやさしいものだった。喧嘩している姿なんか見たことがなかったし、いや最も重要だったのは、両親が僕を産んだことを後悔しているということだった。
 当時はかなりショックを受けたけれど、今となってはもう受け入れている。両親には日々感心する。かれらは僕の前で喧嘩をしないし、仲が悪いというような素振りを見せることもけっしてない。人間をひとり、世の中に産み落とすという行為が持つ、重大な責任。両親はちゃんとそれを理解して、かれらなりに責任を背負ってくれていた。幸福なことである、と思う。
六月だけれど今日は晴れていた。
「湊(みなと)くん、おはよう」
 家の前に美里(みり)が立っている。僕と彼女は三月から付き合っていて、付き合い始めてから三ヶ月が経過した今も、当初に作った、「登校は一緒にする」というルールは保たれ続けている。高三の夏、大学受験をする高校生が過ごすぼんやりと暗い季節を、一緒に戦うような心地で僕たちは共にいる。
「おはよう。今日は髪下ろしてるんだね」
「うん!晴れてたから」
「雨続いてたもんね。久しぶりに見たなあ。良いね」
「ありがとう」
 美里がふわっと笑う。花のような笑顔である。
 告白は僕からだった。三ヶ月って長いようで短くて、未だに彼女が自分の恋人であるという事実は新鮮に嬉しい。二年生の頃に同じクラスになって、修学旅行の班がくじ引きで一緒になったことがきっかけで、観劇という共通の趣味があることを知った。旅行が終わった後、何度か一緒に都内の劇場へ足を運んだ。僕が繊細な感性を持つ彼女に惹かれていくと同時に、(これは後から知ったことなのだけれど、)彼女のほうも、劇の話になると途端に饒舌になる僕に惹かれていったらしかった。授業選択の関係から三学年になるとクラスが離れてしまうことは分かっていたので、このまま終わってしまうのは嫌だ、と決行した僕の告白を彼女は受け入れてくれた。受験生だから去年そうしていたように頻繁にどこかへ出掛けるわけにはいかないけれど、他愛ない話ができるというだけで充分だった。朝一緒に登校して、たまに校内で顔を合わせたら小さく手を振りあう。ひとつひとつを楽しみにして日々を過ごしている。
「美里のクラスって文化祭の出し物もう決まった?」
「うん。劇になったよ、そっちは?」
「何か展示やるみたい。うちのクラスあんまりモチベなくて」
「えー! 展示かあ、珍しい。それなら当日一緒に回れるかもね」
「確かに! 楽しみになってきた」
「ふふ。劇さ、私は脚本で参加するんだよ。観に来てね」
「絶対行く」

 五月の末頃まで、テニス部に所属していた。運動部にしては早い引退かもしれないが、本気で取り組んでいたというわけでもなくて、生徒のほとんどが何らかの部活動に所属する高校で浮かないように適当に入っただけだったから、地区大会であっけなく敗退したのである。同じクラスに同様の理由で早くに引退した友人が数人いるので、クラスでの毎日は代わり映えしないけれど楽しかった。
 高校三年生って、微妙な歳である。小学校、中学校と別れを経験していて、こういった何でもない毎日が後でかけがえのない思い出になることもちゃんと理解できている。それでもそれ以上に、この一年間の過ごし方が将来を全く変えうる、という再三言われる事実が大きく頭の中に居座っていて、身動きがとれないような。毎日、うっすらとした焦燥感の中にいて、それでも大切なものは大切で、日々はゆるやかに進行していた。

 変化があったのは七月の頭のことである。
 土曜に行われた文化祭の代休ということで直後の月曜が休みとなり、この日僕は美里と一緒に遊園地に来ていた。どちらもそんなに絶叫系が得意でないから、アトラクションはほどほどに楽しんで、アイスを買って交換しあいながら食べて、後半は疲れてきたのでほとんどベンチに座って色々の話をすることに時間を費やした。薄暗くなってきたから、最後に観覧車に乗って、それから帰ろうかという話になる。全体的に赤色をしていて、側面に同じ色のチューリップがかわいらしく描かれている観覧車に乗りこむ。
「あー、久しぶりにこんな笑った。楽しかったね!……でも今年はもう最後のデートかな?」
「え、夏休みとか……駄目か。お互い成績やばいし」
「特に私ね。返ってきた模試やばかったの!」
「あれ僕も全然駄目だったよ、あ、今度勉強会でもする?」
「めっちゃあり!勉強会なら親も納得してくれるだろうし……あ、下見て。さっきのジェットコースター、もうあんな小さいよ」
「え、ほんとだ」
 じっと目をこらして真下の遊園地を見る。結構怖かったジェットコースターは、昇りつつある観覧車からから見下ろすとおもちゃのように見える。あんなものに悲鳴を上げていただなんて、なんだか恥ずかしくなってきて、頬が緩んだ。おしゃべりな美里が珍しく黙りながら遊園地を見下ろしているので、なんとなく、僕も景色を見るのに集中してしまう。観覧車を支えるくすんだ白色の塗装が施されたよく分からない沢山の棒、が視界に入っていて、遊園地には子どもたちや、僕たちのようなカップルなんかが溢れている。はっきりとした紫色のワンピースを着ているひとが観覧車の列のなかにいる。こんな静かな場所にいると忘れてしまうが、混んでいるのだ、わりと。
「ね、湊くん」
「?」
「今、ちょっとてっぺん過ぎちゃったけど。ここの観覧車ってさ、あの……」
美里は僕を見ていたが、しだいに自分の膝のあたりに視線を移す。
「ジンクスがあるんだよ、……てっぺんでキスすると愛が永遠になるって。いや、ベタだよね」
「え」
 彼女は少し早口になりながらしゃべって、もう一度僕のことを見る。耳が真っ赤である。途端に口の中が乾いたような感覚が襲ってきて、うまく言葉が出なかった。付き合ってもうすぐ四ヶ月、進みとして早いのか遅いのか分からないが、僕たちはまだキスをしたことがなかった。美里が勇気を出してくれたのだ。意外と恥ずかしがり屋なあの美里が。
 多分、時間としてはそんなに長くないけれど、張り詰めたような沈黙が僕たちの間に流れる。美里の勇気に、応えなくてはならない。気恥ずかしくて、少し笑いながら言う。
「てっぺん、ちょっと過ぎちゃったけど、いい?」
 美里が黙ってうなずく。
 観覧車内、美里に近づいていく。ただでさえ風のせいでうっすら揺れているっていうのに、片側に二人ぶんの体重が寄ると、それはいやに傾いて、どこか耽美的に恐ろしかった。そうして僕たちははじめてのキスをした。唇を離して、見たことのない笑い方をしている美里と目が合って、観覧車はその一周を終えようとしていた。チカッと、頭の中に光るものがある。
 紫色のワンピース?
違和感。さっき観覧車の中から見た光景の中、あの色だけが、何か変だった。遠かったからちゃんと見えなかったけれど、あれ、何が変だったんだろう。あの色だけが、ながい列の中で浮いていた。キスの後の余韻、頭はどちらかというと冴えている。美里はまた黙っていて、ちらと見やると幸福そうに窓の外を見つめていた。夜景、というほどは暗くもない街の風景がどんどん近づいてくる。それはどこかの地点で、風景というより現実の世界として窓の外に現れてくる。観覧車はその一周を終えようとしている、観覧車はその一周を今、
「おかえりなさいませ」
 係員の男性が扉を開けてくれる。ありがとうございます、と返事をし、僕が先に降りて、美里へ手を伸ばすと、柔らかい手が僕の指に触れる。手をつないで、帰ろうか、と美里が言ったから、それに笑顔で返事をして、出口の方にゆっくり向かっていく。観覧車はまだ列を作っていた。紫色のワンピースの女のことを探しながら歩く。
「誰か知り合いでもいた?」
「ああ、いや……」
振り返るような格好になるので、美里が不思議そうに声をかけてくる。
あ。
見つけた! 女はいま、黄色の観覧車へ乗り込もうとしていた。
 ああ、やっぱりあのワンピース、なんだか浮いた色をしている。目につくのだ。気持ちが悪い。考えろ、考える、女は繋いでいた恋人らしき男の手を離して、先に観覧車に乗り込んで、振り返って彼に手を伸ばす。
「ねえ、大丈夫?」
 ついに僕が立ち止まってしまったので、美里は心配そうな声色で僕に声をかけてくる。
 男が女の手を取って、女は無邪気な笑顔でそれを引く。結構二人とも歳いってる感じするのに。元気だなあ。僕もあんなふうに笑えたら。係員が扉を閉める。彼らは椅子に座らずに、まずひとつキスをしていた。紫色はガラス越しでもこんなに不快に目につく、考えろ、考える、考えるな、
「湊くん、本当にどうしたの? 聞いてる?」
 ちょっといいレストランに出掛けるときとか、いつもあのワンピース着るんだよな。若い頃に父さんにプレゼントされたとかなんだかで。着るたび、「もうキツいかな?」って、僕に聞くんだよ。レストランに行って良いもの食べてるときより、あの準備の時間が好きだった。幸せな家族、って感じして。
 母だった。知らない男と、母が長い口づけをしている。観覧車はこの地上へ僕たちを連れてきたのと、おんなじスピードで母を空に送っていく。よく目を凝らす。あ、黄色い観覧車にも、黄色いチューリップが描かれているんだ。意外にも。
「湊くん!」
 美里は、ほとんど叫びに近い声量で僕の名前を呼んでいた。

 その日、彼女にはちゃんと謝ってからそれぞれの帰路についた。家に帰って父に母の所在を訊ねると、父はいつも通りゆったりと笑って言う。
「お前、一緒に話聞いてただろ。今日は地元の友だちと泊まりの旅行だって言ってたぞ、お土産は何にするとか話したのに。まあ、聞いたのも結構前か」
「ああ、そうだった……忘れてた」
「晩飯、作り置きしてくれてるから。冷蔵庫にある」
「わかった。ありがとう」
 泊まり。頭を殴られたような感覚に襲われる。父の言うとおり、この旅行の話を聞いたのは二ヶ月とか、それくらい前のことである。少なくともあの時点からずっと母は不倫をしているわけだ。一体いつからなのだろうか、手がかりは少ない、けれど、あれは確実に母だった。父はこのことを知っているのだろうか。何も知らないのと、何もかも知った上で無視をしているのでは話が違ってくる。両親は、僕の前でその不仲をけっして見せない。僕が自室に居るときたまに喧嘩の声が聞こえてくることがあるくらいで、かれらの仲が今どれくらい冷え切ったものであるのかはわからなかった。生活の、表面上の平穏、それは守っていくべきものなのだと思っていたけれど、今はそうは思えなかった。両親のことが何も分からない。今まで目を背け続けてきたから、今こうして二人のことが知りたくなったとき、言葉にして訊ねる資格がないような気がしている。
 何も問えないままその日は眠った。

 翌日も当然、美里は家の前に立っていた。
「おはよう、湊くん」
「おはよう、昨日、帰り際ほんとごめん。ぼーっとしちゃって」
「ううん、いいの……だって、はじめて、その」
「キス、したもんね」
 美里がきゅっと口を結んで、頷いて、それから恥ずかしそうに笑う。朝日が差している。七月だけれど、朝なので不快なほど暑くはない。美里は、昨日の僕の奇行のことを、気分の高揚による硬直だと解釈してくれたらしかった。母が不倫をしていた、なんて、絶対に言いたくないから助かった。朝の日差しって、いつでもうっすらと白い半透明のなにかを伴っている。そのことに気がついたのは、美里を好きになってからだった。彼女はきれいな声で今日の日課の話をしていて、僕は相槌を打ちながらそれを聞いている。僕のそれとは違う黒く艶のある髪に朝日が反射している。紛れもなく恋である。人を好きになるっていうのは、どういうことなのか。改めて考えている。
 母のことが頭から離れないまま、その一日を過ごした。昨日あの光景を目にしてしまう前の、平坦な毎日の平坦さが今は恋しかった。一つ大きな不安があると、それと連動するように、普段忘れていた細々とした不安が胸の中でかたちを持ち始める。授業を受けて、ノートを取る。演習問題を解いて、皆よりも少しペースが遅いことに焦る。大学、受かるだろうか。毎日をひとつひとつ生きていくことは、結局のところ苦行だ、と思う。進学は自分で選んだ進路であったが、すべての選択が自分自身の手の中にあったとは到底思えない。
『だから子どもなんか産みたくなかったの!』
じゃ、ないだろ。誰に頼まれて産んだんだよ。

 母は今日の夕方には帰ることになっていた。友人と共に家の方向へと歩いていきながら、自身の脚が重たくなっていくのを感じる。会話の内容が頭に入ってこない。母はもう二度と帰ってこないのではないだろうか、という予感があって、それがどうしようもなく恐ろしいのである。重たい玄関の扉を開けて、その中に閉じ込められている《家》という空間の空気が外に流れ出てきて、そのやわらかく暖かい激流に顔を殴られる一瞬、のあの感じ、が今、こんなにも怖い。
 友人と別れて、今度は一人で歩いている。今朝も、美里はほんとうに可愛かった。デートの翌日の学校が好きだ。僕と彼女が恋人同士であることを知っている人がどれくらいいるのかはわからないけれど、二人の間だけで共有される記憶を作成して、それは僕たち二人以外にはけして知り得ないものだ。僕らが昨日、遊園地に行ったということすら誰も知らないのである。ましてやあの観覧車の中僕らがキスをしたなんてことは知られようもないことであって、美里のほうもそんなことを考えているんだろうと考えると、それは紛れもなく秘密の共有、なんにも悪いことなんかしてないのにどこか後ろめたくてどきどきする。今朝、勉強会の計画を具体的に立てた。夏休み、憂鬱でしかなかったが、すこし楽しみになってきている自分がいる。
 深呼吸をする。玄関の扉を開けて、「ただいま」と、なるべく平常通りの声で言う。
「おかえり! お母さん帰ってきたよー」
明るく間延びした声。キッチンへ行くと、母は料理をしていた。この時間はいつもそうである。ここは家の北側にあって、壁には大きな窓がついている。多分換気のためとかに使うための、曇ったその窓の向こうに、オレンジになった空がぼんやりと見える。太陽が落ちようとしている。母は多分こちらを見ているが、背景の光が強いのでその表情ははっきりせず、自分がひどくおびえている、ということに気がつくとき太陽は

 それは母である。
 ああ 辞項と辞項とのなんと刺激的な交接。
長く熱烈なキスの映像が、こわれつつある頭の中で繰り返される。母は少女のように清潔な笑みを浮かべていて、それは正しいことであるような気がして、
 夜に永遠に到達しえない、いまわしい、きらめく暴力を携えた太陽が観覧車の、その長く寂しい一周を終えて再び地上に下ってくるのを僕は見ている。

黄色い観覧車にも、黄色いチューリップが描かれているのだ。

生まれたときから 知っていたことのような気がする。

落ちない。夕方が夜に傾くのって、時間がかかる。
「湊?……何かあったの?」
「……熱中症かもしれない、頭が痛い」
「うそ!今日暑かったもんね」
 母の心配そうな声色を聞いている、母が、何かぶつぶつ言いながら冷蔵庫の中身を確認し始める。エプロンをつけていて、傷んだ髪をした彼女のことをじっと見る。
 彼女は罪人であろうか? 僕が居なければ、両親は多分離婚しているんだろう。僕には何の責任もないのか? 僕がいなければ、紫色のワンピースの女と男とは多分いま、何の後ろめたさも伴わずに、まっすぐに愛し合っていたのだ。美里の笑顔が頭の中でチカッと光る。花みたいな笑顔である。
「あった! スポーツドリンク。賞味期限……大丈夫。これ、飲みなさい」
 母に差し出されたペットボトルを受け取る。僕は、母のことが好きだ。愛情深く育てられたほうだと思う。可能な限り幸せになって欲しいし、そのためなら何でもできる……とまではいかないけれど、出来る限りのことをしたい、と思っている。
「ありがとう」
 顔を上げて、母の顔を、今日初めて直視する。なんとなく違和感があって、すこし考えてから、ああ口紅だ、と思う。普段はかなり落ち着いた色の口紅をつけているから、今日の、ピンクがかった赤色のそれには違和感がある。
「なんか口、派手だね」
「え、変?」
「ううん、そうじゃなくて。珍しいなって」
「こういう色もたまには良いかなと思って。旅行先で、友だちが買ってくれたんだよ。似合う?」
 思わず目を背けて、まずい、と思い、もう一度母を見る。母はニコニコしていた。いつも通りの明るい笑顔は、明るい色の口紅に彩られ、なんだか不必要に感じられるくらいに華やかで美しくて、悪寒が走る。
「うん、似合うよ」
 吐きそうになりながらそう言って、キッチンから出た。自室に入って、手に持っていた冷たすぎるペットボトルをベッドに放り投げる。制服を脱いで、部屋着に着替えていく。ひとつひとつを正常に。いつも通り過ごすのだ。隙を見せたら簡単に崩される。涙は、眼からこぼれる前に乱雑に拭う。バッグから教材を取り出す。なんてことはない、いつも通り、父が帰ってくるまで勉強をすればいいのだ。いや、久しぶりに友人をゲームに誘ってみるのでもいい。それとも美里に電話をかけようか。とにかく時間を潰して、父が帰ってきたら、家族全員での食事がはじまって、そのあと順番にお風呂に入って、それぞれが今日あったことを話して、一通りそれが終わったら眠る。今この瞬間この家の中には、母の不倫を知らない人間がいないのだ。異常を正常に戻してくれる何かがないと。
 大昔、僕にとって家族というものは、揺るぎない信頼によって成り立つ唯一無二の愛の聖域であった。今の今まで多分、そういう都合のいい夢を見つづけていたのである。ついに涙がどうしようもなくなって、声を押し殺しながら泣く。瞼が腫れたら不審に思われてしまうだろうから、自分に、できるだけ優しく触れながら。

 父が帰ってきて、平生と同様に家族全員で食卓を囲む。食器を片し終えたら、父、僕、母の順に風呂に入っていく。母が風呂に行っている間、ふと思いついて、母の鏡台から例の口紅を持ち出してくる。
「父さん、これ、母さんの新しい口紅」
「ああ。今日なんか珍しい色つけてたな。あれか」
「そう。旅行先で友だちに買ってもらったんだって」
「へー、そうなんだ。いいじゃないか」
「父さん、どう思う?」
「え?」
父は手にしているスマートフォンに目を向けつづけている。僕は口紅の蓋を外して、中身を繰り出す。
「父さん、どう思った?」
 父の動きがぴたりと止む。口紅ってそれそのものとしては、およそ人の口に塗られるものとは思えないくらいに鮮やかな色をしている。動物じみた色彩であるようにも思えるし、それは紛れもなく人間によってしか生み出され得ないものだ、とも思う。父はスマホから目線を外して、形式だけ僕の方を見る。ほんとうに僕のことを見てなんかいないってことが、血が繋がっているから、わかる。
「どうでもいい、って思ってるよ」
 彼は、落ち着いた調子でそう言った。視線はすぐに画面へと帰っていって、なだめるような言葉が続く。
「返してきなさい。ひとの物に勝手に触るのは良くないぞ」

 部屋の電気をつけずに、母の鏡台の前に立っている。安心したような心地でもあったし、絶望したような心地でもあった。リビングにて蓋をした口紅を、精密に、もとあった場所へと返す。もうすぐ母が風呂から上がってくる。急がなくてはならない。それでも、ゆったりとした手つきで、ポケットに入れていたスマホを取り出して、美里に電話をかける。呼び出し音が小さく聞こえて、手が震えている。スマホを右の耳に当てる。
「……もしもし?」
 美里は声まで綺麗だった。どこか気品のあるようなその雰囲気は、電話越しでも変わらない。
「急にごめんね。話したいことがあって」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
 目の前に立っている鏡を見ると、幽霊みたいな風貌の僕が立っていた。暗い絵画の中、スマホの放つ光に照らされて、顔の右側だけが、何かの過ちみたいに青白く光っている。
「僕と別れて欲しい。ごめん。さよなら」
 言い放って、すぐに通話を切る。画面が暗くなって、部屋は暗闇に沈む。ちゃんと伝わっただろうか、ちゃんと伝わってしまっていたのなら、美里、やっぱり泣くんだろうな。ああ、考えてみると、僕は美里の泣き顔を一度も見たことがない。幸せなことである。彼女のことを心底愛しているのだ。
 すこしの間じっと黙っていたら、美里からLINEが来た。内容は見ずに、彼女のことをブロックする。こうして再びスマホが光ったので、鏡にはもう一度僕が映る。
 切れ長の目もとに、あまり高くない鼻。お父さんにもお母さんにも似ているね、と、幼少の頃からよく言われてきた。頬を涙が伝っている。これだけはどうしようもなく、僕が産みだしたものだ、と思う。こんな単純な透明が、母になんか、父になんか、似ていてたまるか。
 同じことが起こらないように、とりあえずスマホの電源を切る。今度こそ完全な暗闇に沈んだ部屋の中、観覧車の廻転がいま、止まる。見上げると、頂上では黄色い観覧車が花の絵とともに緩やかに揺れていた。目をこらすまでもなくその中には、母と知らない男とが、ひたすら永遠の愛を祈っているのが見えた。

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