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アガンベン「ある問いにかんして」

 以下の文章は、哲学者ジョルジョ・アガンベンが新型コロナウイルスの問題について4月14日にQuodlibet社のサイトで発表した記事(https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-una-domanda)の翻訳です。

 「国家全体がそれに気づかぬうちに、ある疫病を前にして倫理的にも、政治的にも崩壊してしまう、こんなことはなぜ起こりえたのか」。この問いをわたしは一か月以上も前から考察しているのだが、この問題に関心を抱いている人々に応答することにしたい。この問いを定式化するにあたって用いた語彙は、ひとつひとつ注意深く吟味されたものである。自らの倫理的、政治的原則の放棄という基準は、実のところきわめてシンプルなものだ。すなわち、ここで問題になっているのは、その境界の先では[原則のうち]何ひとつとして譲るつもりはない、そのような境界とは何か、を自問することである。思うに、以下で述べる論点を敢えて自力で辿ってみようとする読者は、気づかぬうちにせよ、気づかぬふりをしてにせよ、人類と野蛮とを分かつ敷居がすでに踏み越えられてしまったということに同意せざるをえないのではないだろうか。

1. まず一点目——これが最も深刻な問題なのだが——は、死者の遺体についてである。どうしてわれわれは、特定されえない「リスク」、ただそれだけを理由に、愛する人や人間一般が孤独に死んでゆくことばかりか、彼らの遺体が葬儀もされぬまま火葬されることをも——これは歴史上これまで、アンティゴネーから現代にいたるまで、決して生じなかったことである——受け入れることができたのか。
2. そのあと、われわれはさほど問題視することなく、またもや特定されえないリスクのみを理由に、自身の行動の自由が制限されることを容認した。この制限の規模は、この国の歴史上、二度の世界大戦中でさえ(当時の外出禁止令は特定の時間帯に限定されていた)、なかったものである。かくして、特定されえない「リスク」のもとに、われわれの友人関係や恋愛関係を事実上停止することを受け入れたのだ——というのも、そうした関係は「潜在的なpossibile」感染源となったからである。
3. こうしたことが生じえたのは、生の経験——これはそもそも身体的であると同時に精神的なものであり、両者は不可分であるが——が備える一性を、一方では純粋に生物学的な実体へと、他方では情動的、文化的な生へと引き裂いてしまったからである。ここにこそ、先に述べたような現象の原因があるのだ。イヴァン・イリイチが示したように、そして最近、デイヴィッド・ケイリーが思い出させてくれたように、この抽象・分離化(astrazione)——ごく当たり前のことだと思いなされているが、これは最大の抽象・分離化である——の責任は近代医学に帰すことができる。身体を純粋に植物的生の状態に保つことができる蘇生技術の諸装置を用いて、近代医学がこうした抽象・分離化を果たしたこと、このことはわたしもよく存じ上げている。

 とはいえ、もしこうした状況が——目下、熱心に行われているように——それに固有の時間的・空間的境界を越えて拡大し、一種の社会的行動規範と化すならば、出口のない矛盾へと陥ることになる。[このようなことを言うと]一目散にやってきて、これは一時的な状態なのであって、それが終われば、すべては元通りになる、と述べたがるひとがいるのは承知している。[今回の騒動で]きわめて特異なのは、かならずしも悪意から、こうした発言が繰り返されているのではない、という点である。というのも、緊急事態宣言を発表した当局自身が、この非常事態が克服されたとしても、それまでと同じく諸々の指示は遵守されつづける必要があること、そして「社会的距離」——これは意味深長な婉曲話法である——が社会制度の新たな規範となることを絶えず周知しているからだ。とはいえ、悪意からにせよ、善意からにせよ、いちど受け入れられた事柄を帳消しにすることは不可能だろう。

 ここまで、わたしたちひとりひとりの責任を告発してきた。ここでわたしは、人間の尊厳を擁護する任を負っていたはずのひとびとに帰されるべき、さらに重い責任に言及せざるをえない。まず第一のものは教会である。彼らは、現代における正真正銘の宗教となった科学の婢に身をやつし、自身にとって最も本質的な諸原則を全面的に放棄した。まさしくフランチェスコという名の教皇を戴く教会は、アッシジのフランチェスコがハンセン病者に抱擁したことを忘れてしまったのだ。慈悲のひとつは病人を見舞うことであることも忘れ、さらには殉教者たちが示した、信仰よりもむしろ生命を犠牲にする覚悟をすること、自らの隣人を見捨てることは信仰を捨てるに等しいということをも忘れている。
 自身の役目を怠ったもうひとつの集団は法学者だ。緊急法令が無分別に用いられ、それにより事実上行政権が立法権に取って代わり、民主主義を規定する三権分立の原則が廃棄される、という事態に、しばらく前からわたしたちは慣れてしまっている。だが、今回の場合は、あらゆる限界が飛び越されており、首相と市民保護局長官の言葉が——まるで「総統」のそれのごとく——すぐさま法としての価値を持つかのような印象を受ける。そして緊急法令の有効期間が切れたのち、どのようにすれば——予告されているような——自由の制限の維持が可能なのかは不明である。法的な手段によってか、あるいは永続的な例外状態によってなのか。憲法が尊重されているかを検証するのは法学者の務めであるわけだが、彼らは黙して語らない。「なぜ法学者は自身の事柄に沈黙するのか(Quare silete iuristae in munere vestro ?)」というわけだ。
 真正な犠牲は道徳法則の名のもとに行われてきたのだ、と反論する方がきっといらっしゃるでしょう。こうした御仁には、アイヒマンは一見したところ誠意をこめて、以下のように何度も繰り返したのだと応じておきましょう。つまり、自分のやったことはすべて良心にしたがってのものであり、カント的道徳が命ずると思われることがらに自分は従順に従ったのだ、と。善を救うために善を放棄しなければならないとする法は、自由を守るために自由を放棄しなければならないとする法と同じく誤りであり、矛盾している。

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