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読書メモ:#10 遅いインターネット

あくまで自分用の読書メモです。 なので実際の内容との相違や筆者の方との認識違いもあります。 ネタバレ含むので注意。


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2020東京オリンピックを行う意味とは

オリンピックを世界中の都市が誘致するのは、それが絶大なナショナリズムを発揮させる装置だから。国家がそのアイデンティティの再構築を要求されるときオリンピックの開催は有効な手段と信じられている。
ロンドンオリンピックは移民や低所得者の集まる東地区の大規模開発を前提に誘致された。
オリンピックとはある街と国が次の世代に手渡したい未来んおん社会んお青写真があって初めて誘致されるべきもの。

1964年の東京オリンピックはその最も成功した事例。
首都高、新幹線など、東京オリンピックの半世紀以上前に計画され整備された。
敗戰の復興から高度経済成長へと飛躍する当時の日本の国威発揚、急速に発展する国内産業をした支えする都市改造とインフラストラクチャのん総合計画でもあった。つまり未来を見据えた半世紀規模の大計画が存在した。

2020年東京オリンピックにはその青写真が全くない。
もう一度東京にオリンピックが来れば誰もが上をむいていた「あの頃」に戻れるといわんばかりの無根拠なぼんやりとした期待のみ。
そのためグランドプランを考慮せずにスタジアムなどを整備し、上部だけをみた無意味なその場の空気(世論)に流されて再設計や見直しなどが行われ、結果無駄な予算が使われている。
そして根本的な問題は考慮されぬまま放置され続ける。



平成という「失敗したプロジェクト」

・政治改革(二大政党による政権交代の実現)
 → 連立政権、政権交代、第三極や地域改革政党ブームを経てそれぞれのフェーズで茶番を繰り返し、結局自民党一党支配はより盤石となり、野党は政権交代の可能性を模索するのではなく自民党への批判票への受け皿になっただけ。

・経済改革(20世紀的工業革命から21世紀的情報社会への転換)
 → かつての成功体験にひきずられ、21世紀的情報産業が発達せずシリコンバレーや中国に完全に置き去りにされている。国という単位でもGDPも世界2位から18位まで転落している。


イノベーションを阻害する過去の成功体験とそれにしがみつく旧い日本人
なぜ平成は失敗したのか。
それはかつての成功体験に引っ張られ20世紀的経営から脱却できなかったから。
個人の可能性を抑圧し才能を潰し組織の歯車にすることで情報産業を支えるイノベーションを阻害。成功体験に引きずられた旧い日本人は失敗や愚かさを認めようとせず、いまだにハンコや通帳が幅を利かせるなど既存の雇用を守るための勢力がイノベーションを阻害し続けている。
それを改善するべき政治もこうした波に鈍感さを発揮したまま単に静観することしかできなかった。
それどころか現実の変化を認めない人の側に立って、リスクを取って波に乗ろうとした人の足を引っ張ることに加担することすらあった。



「意識の低すぎる大衆」を対象とした政治戦略

政治家は旧態依然の文化が残り続け、「意識の低すぎる大衆」を対象とした政治戦略をとっている。
「市民」を対象とするよりも「大衆」を対象とした方が当選に対して効率的かつ当選確率が上がるから。
なぜか。人間は自分の選択を自己決定できる能動的な主体=市民(意識の高い市民)と、運命に流されていく受動的な主体=大衆(意識の低い)の両面を持っている。
日本は戦前から同調主義の文化があり個人の意思を思考停止させ「大衆」をつくりやすい。同調圧力を求めて半強制的に意思や意見を紡いている。(その例が戦時中の市民による反戦に対する意見)
大衆にとっては日々の目の前の起きている生活が日常であり、政治は別世界。
テレビなどマスメディアで大衆(弱者)に対しての特集や政治家が大衆に対して幻想を悟ることで自分自身を一時的に忘却し大衆化させる。
「大衆」にとって選挙はその時だけ自身が世界に素手で触れていると錯覚する非日常であり祝祭である。

自己の当選のことしか考えていない政治家が、大衆にとって都合の良い「幻想」を唱えることによって、今までの世界や日常を変えたく無い幻想を信じたい「大衆」は幻想を唱える政治家に票を入れる。市民によって日常が壊されると思いこむ。
その結果保守的な政策が実行されることなり、日本の経済は過去の幻想を忘れることができないまま変革できず世界からどんどん遅れをとっていく。

大衆を想定したシステムと教養化された市民を対象にしたシステムを併走させ、その二者のバランスを取る二重構造が近代社内の常となり、この二重構造が破綻している。


Somewhereな人々
・「どこか」を定め無いと生きていけない人々。境界のある世界で生きている(第二次産業の仕事をしていることが多い)
・持っている情報が少ない(自分の働いている世界が身近な世界で閉じている)ため情報の範囲、日常に感じる範囲が狭い。
・思想として理想を追うことが多い。実現できるできないではなく、こんな世界、こんな政治施策だったらいいという理想を信じる。(正確には信じたい)
・世界に素手で触れている感覚、自分たちの仕事が市場を通じて世界を変えている感覚を持つことが難しい。
・政治で自分の1票を通じて世界に触れていると、瀬慧海を変えられると真実ことが世界に触れていると感じる瞬間。承認欲求の吐口として政治を利用する。

Anywhereな人々
・「どこでも」生きていける人々。境界のない世界で生きている(情報系の仕事をしていることが多い)
・仕事も場所を選ばずどこでもでき、海外の人や会社と直接取引を行えるなどインターネットを通じて世界に素手で触れている感を持っている。
・世界の人と触れ合う、情報を得ることができ、リベラルで多様性を擁護する傾向がある。



日本のインターネットの二分化

どちらも口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビのワイドショーのようにしか使えていない。ネットで結論がわかっていることを発信することで自分は善の側に立っていることを確認し、反対側の意見を非難することで自分が救われると信じている。

・ワイドショー/twitterのTLで善悪を判断する無党派層(愚民):
前者は週に一度目立ち過ぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げることで自分たちはまともなマジョリティ側であると安心するための道具にしている。

・20世紀的なイデオロギーに回帰し時にヘイトスピーチやフェイクニュースを拡散することで精神的安定を図っている左右の党派層(カルト):
答えのない複雑性ヵら目を背け世界を善悪で二分することで単純化し不安から逃れようとする。ヘイトやフェイク
ニュースを拡散することを正義として疑わずそのことで安定した世界観を強化している。


拡張現実と自然への接続回路

Googleの思想に従うと、世界を情報化し検索可能にしてしまえばあとはプレイヤーが勝手に世界を歩き回り自然や歴史と接続し、クリエイティビティを発揮することを目指していた。
しかし実際は検索したいものしか視界に入れず、googleの整備した環境を使いこなすことができていない。

仕事の移動ルートを検索し、最適化するだけで満足しそこで偶然視界に入る建物や自然に注意を払うことがなくなる。
旅行に出かけても観光地でwikiを見るだけで普段と違う場所で寝る、違うものを食べることで得られる膨大な情報に注意を払うことがない。
Google出身のジョンハンケはポケモンGOを作ることによって、拡張現実を提供し、普段歩いている道や建物に対して「気づき」を与えた。
それは、「ここではない、どこか」に脱出するのではなく、「ここ」を深く潜ることでこの現実を拡張し日常の中に自然や歴史への接続回路(注意)を埋め込むゲーミーフィケーションを試みた。


現代の人間の心を動かす4つカテゴリー

  他人の物語
     ↑
日常  ←  →  非日常
     ↓
  個人の物語


第一象限:非日常 x 他人の物語 →20世紀を代表とする劇映画やニュース映画。平面に映し出される他人の物語に感情移入し社会で共有し一体感を味わう快楽を得ていた。

第二象限:日常 x 他人の物語 → テレビ。他人の物語への感情移入を祝祭から生活の一部へと変えた。そしてテレビからネット配信動画へと変化していった。

第四象限:非日常 x 個人の物語 → ネットによって音楽や映像の受信を簡易かつ過剰供給することによって価値が暴落し、自分だけの体験を求めて現場へ足を運んで参加するようになる(フェスやアイドルの握手会など)。それを自分の物語として発信。

第三象限:日常 x 個人の物語→ 競技スポーツを「観る」からライフスタイルスポーツ(ランニングやヨガ)を「する」に移行。ゲームを「する」から日常世界で異なる日常を発見するへ。

今までは他人の物語を享受ことによって個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。
これからは(グローバル資本主義)は共同幻想を用いずに、政治ではなく経済の力で、精神ではなく身体のレベルで世界を一つにつながる。
つまり、これまでのように「他人の物語」は必要としなくなった。


共同幻想論と自立

戦後、人間が世界を認識するために3つの幻想が機能すると定義した者(吉本隆明)がいた。
自己幻想(自分自身に対する像)、対幻想(1対1の関係について)、共同幻想(集団が共有する目に見えない存在)。
現代では人々は以下でその幻想を対応している。
自己幻想Facebook)、対幻想(LINNE)、共同幻想(Twitter)。
かつてはこの3つの幻想が対立しあって民主主義が成り立っていたが、現代は自己幻想が2つの幻想を吸収している。
自己を高めるために対幻想(タグ付)、共同幻想(リツイート)を強化している。
ただし、それを行っても自己幻想からの「自立」はできない。自己幻想を強化しても、世界に対して程よい距離を保ちながら程よく接することを繰り返すことができなければ、世界に素手で触れている「感覚」になっているだけ。(無意味なリツイートや善悪だけでの判断、同調強要による自己満足)


遅いインターネット

現在のインターネットは人間を「考えさせない」道具になっている。
ユーザーの自由な発言を抑圧し、ユーザーの同調圧力によって息苦しい状態。
また、結論を述べてくれる情報のみを消費している人々が今の自分を安心させるためだけに、信用できるかどうかもわからないニュースを拡散している。
自分で考える能力を育むことをせずに成人し、「みんなと同じ」であることを短期的に確認することでしか自己を肯定できない虚しい人が、週に1回失敗した人間や目立った人間を生贄にし石を投げ、自分はまともなマジョリティ側の人間だと安心している。
これらは「考えない」ためにインターネットを用いる行為。

このような考えない理由行為に及ぶ理由は、インターネット(特にtwitter)の「速さ」。
速すぎる回転に飲み込まれ無いように、自分たちのペースでじっくり「考えるための」情報に接することができるような場所を作る。
そして、ただ読み物を提供するだけでなく、自分で考え、「書く」技術を共有する。そんなコミュニティが作者の考える「遅いインターネット」。

タイムラインに流れる情報や、ニュースサイトが閲覧数目的で選ぶ扇情的な見出しの並ぶ情報に脊髄反射的に反応して「発信」する行為は「考慮している」とは言えない。タイムラインの潮目を読んだだけの表層的な内容で、自分が内実を伴った意見を発信しているかのような、素手で世界を触れているかのような錯覚に陥り、その発信の快楽に溺れているだけ。

価値のある情報とはYESかNOを述べるのではなく、その対象を「読む」ことで得られたものから自分で問題を設定すること。
単に叩く、褒めるかの評価経済的に自分が有利か不利かを考えるのではなく、その対象の投げかけに応えることで新たに問題を設定すること。すでに世界に存在している問題の、それもすでに示されている選択肢に答えを出すのではなく、新たに問いを生むことが世界を豊にする発信で、世界に存在する視点を増やすことが価値のある情報である。

新たな問いを生む発信は、既に存在する価値への「共感」の外側にある。
与えられた情報に対して予め良いと思っていたからこそ「いいね」するが内面に変化は起きない。
人間は「共感」したときではなく、想像を超えたものに触れたときに価値転倒を起こす。

これからの時代は、ゴールに対してどうたどり着くかではなく、走り続けることができるか。走り続けるためにどう足腰を作り上げ維持することができるかが重要。
「遅いインターネット」とは、走ることのもたらす豊さのようなもの。
走るという行為は主体的な行為で、物事の解像度が上がる。オリンピックなど他人の物語を「観る」時代からランニングやヨガを「する」時代へ。非日常から日常へ変わりつつある。インターネットの世界も同様で「非日常」の「他人の物語」をどう「日常」の「自分の物語」にしていくかが重要。
「他人の物語」を知った上でどう自分の考えが、世界の見え方が変化するか。

その変化を世界における自分の位置を正しく把握する視点(世界視点)、自分の立っている場所に深く潜る視点(普通視点)を反復的に繰り返し、新たな価値を「書く」き続けること、つまり走り続けることを楽しむことが必要。


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