変人類学序説③:「変人」の現象学
結局、「変人」とはなんなのだろう?
どんな特質を持った人間を、ぼくたちは変人と呼ぶのだろうか。
そのような疑問をもとに、この概念をめぐる知的な探求と実践活動が始まったのだが、「変人」をめぐる本質的な理解に向けた解答は、比較的簡単に手に入れることができた。その解答とは、「答えなどない」ということだった。変人というワードは、その都度の文脈や沸き起こる感情、他者との流動的な関係性の断片から生み出される状況依存的な概念であり、そこに埋め込まれた記号たちは、あまりに多様(過剰)であるからだ。あるときは、人に備わっている「個性」を指し、あるときは排除されるべき異質な人物を指し、あるときは創造性あふれる有能な人材を示している。危険であり、不快であり、羨望のまとであり、期待感に溢れ、惨めであり、愛しくあり、恐怖であり、魅惑の存在。
「変人」とは、具体的な特質や状況を指し示す、つまり意味内容の固定化された(シニフィアンとシニフィエが安定した一体感を示すような)記号ではなく、意味されるものと意味内容が不整合なまま漂い続ける「浮遊するシニフィアン」として表現することができるような現象なのだった。だから、「変人」が語られる時には、あくまでもその埋め込まれた状況や文脈とセットで、その意味するところを捉えなければならなくなる。変人を語る人の本意は結局わからぬまま、そのメッセージの受け手が状況証拠を集めながら推察しなければならないような(現象学的な解釈を強いられるような)表現なのだ。その意味で、「変人に本質は存在しない」。逆にいうと、「変人はその都度つくられている」ということになる。
例えば、あなたに向けて突きつけられた「君って変人だよね」という言葉を想像してもらいたい。あなたは、その言葉を前に、それをどのように解釈し、対応するのか――その発信者は誰なのか、その発信者とのこれまでの関係性はどのようなものだったか、どのような状況で発せられたのか、その発言の前後の話はなんだっかか。声のトーンは?顔の表情は?どんなジェスチャーをしていた?あなたはきっと意識的/無意識的にこれらの情報を総合的に判断して、その「変人」に込められた意味を捉えようとするだろう。それは「褒(ほ)め」「称揚」「羨望」の言葉だったかもしれないし、「貶(けな)し」「蔑み」「茶化し」だったかもしれない。どうしても腑に落ちなかったら、切り返してこう言おう。「何それ、どういう意味?」。
ここが出発点。「変人」というワードは浮遊していた。文脈依存性の高い概念。でも、ここで止まってはいけない。ぼくに課せられたのは、「変」「変人」というワードから引き出されるべきポジティブな力や可能性を見つけだし、それを教育や社会の文脈で生かしていくことだ。「答えはありませんでした」で済まされる話ではない。さてどうしよう?
次のステップは、「変人」が語られる文脈を調べていくことだった。研究所の所員は増え、(教育界、学術界、ビジネス界を問わず)多くの方々との対話を持つことができた。そんな議論のなかで、「変人」が生み出される共通の構造に、はたと気がついた。というより、うすうす気がついていたことが言葉になっていった、といった方がいいかもしれない。それは、「変」「変人」は、常に特定の構造(ウチ)と他の構造(ソト)との境界領域で発現するとこが最も多い、ということだ。
変人は、完全なる「包摂」でも、完全なる「逸脱」でもなく、ウチとソトが混ざり合う、微妙な包摂/排除の力学が作用する空間で生み出される。異質だけど(ぎりぎり)理解できる、排除したいけどしきれない、常識ではなさそうだけど絶対的な非常識ではない、完全ではないけど不完全ではないような境界領域。それは「あわい」であり、「はざま」にあるような、曖昧な世界。秩序を破壊してしまうようなポテンシャルは持っているが、強烈な暴力によって粉々になるような破壊力は持っていない。微妙な異質性を持ちながら、同質的(とされる)安定した世界が引き受けることのできないほどには外れておらず、そこまで破壊的じゃない、そんなマージナル(周辺・限界)な領域と「変」「変人」はつながっている。
ちなみに、この「あわいの領域」を完全に踏み越えたとされる人々のことを指し示すワードは、溢れるほど存在する。犯罪者、異常者、障害者、不良、社会不適合者……。あらゆる「排除」「逸脱」のラベルを貼られた人々は、明確に「異常者」としての名を与えられてしまう。つまり、一時的にであれ「あちら側」の人間として「彼岸」の人間として「此岸」と領域を分たれてしまうのである。
「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定 の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが「違反者」に適用された結果なのである」[1]。
アメリカの社会学者ベッカーは、特定の人物をラベルづけして「彼岸」へと追いやる「逸脱現象」を、まさにその現象を統制しようとする側の活動が生み出していることを鮮烈に我々に突きつけている(排除・逸脱現象については〇〇章で詳述する)。逸脱は、逸脱をやめさせようとする人間が生み出している。なんとも逆説的な話。
ぼくたちは、上記のような「彼岸」へ追いやられた逸脱者に対し、変/変人という言葉は使わない。なぜなら、逸脱者には特別な「名」がとても多彩に用意されているからだ。「逸脱」には至らないが、「彼岸」に向けた道中に生まれる多様な現象こそが、「変」として捉えられる集合体なのだ。つまり変/変人とは、この彼岸と此岸の「あわい」、またはその重なり合う接触領域にこそ現前する現象と考えられる。その領域は、中心がどこかによって柔軟に認知されるような、帯のような空間を構成している。研究所では、その一帯を「変帯域」と名づけることにした。
当然その域は、グラデーションを持つことになる。最も彼岸に近い状態から、此岸に近い状態まで。濃度の高い変人から、濃度の薄い変人まで。それは、あくまでもその都度想定されている中心性(=「まともさ」)からの距離感[2]であり、その濃度を測ることができるような均質な評価軸は存在しない。「変」の濃度や「【名】変さ」の方向は、その異質性を生み出す構造との関係で決められる、放射状の感覚・観念、つまりイマージュによってその都度決定される。その意味で、「変」をめぐる色彩は豊かで、スペクトラムを構成している。「変」はとても色鮮やかなのだ。仮にこのような発想を「変スペクトラム」と名付けておこう。プリズムを使って光周波数の実験をしたことがあるだろうか。あの「白=善」と「黒=悪」に挟まれた、虹のような色彩の帯の輝きこそ、「変」なのだ。
ついでにもう一つ、重要なワードがある。同研究所では、「偏差値から変さ値へ」というキャッチフレーズを掲げてきた。その「変さ値」とは、「変」の色彩の多様性ではなく、中心性とそこからのズレの即時的で限定的な距離感・差異の感覚的な値のことだ。簡単にいうと、「今、どれくらいズレてる?」ということだ。「変さ値」概念については、また後ほど戻ってこよう。
[1] ベッカー、ハワード.S. 2011『アウトサイダーズ:ラベリング理論再考』(村上直之訳)現代人文社。
[2] 「変」の英語訳の主要なワード「eccentric」は、ギリシャ語のek(外)とkentron(中心)に由来する。つまり中心からのズレを意味することも示唆的だ。欅坂46の名曲『エキセントリック』でも、「普通」が支配する中心的世界に根底から揺さぶりをかけて、ともに自由になろう、と歌っている。彼らをアイドル界のホモ・ヘンデス的存在の代表としてもいいかもしれない。
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