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看護が嫌いになって、好きになった。

平凡な家庭に生まれ育ちました。

特記事項があるとすれば、母子家庭で私の5歳下の兄弟が二卵性双生児なことくらい。

女手一つで裕福とは決していえない中でも、三兄弟全員がピアノと水泳と剣道を習わせてもらえた家庭でした。

歳を重ねて一年、また一年と、母が私を産んだ年齢に近づくたびに、今の私が3人の育児をして、仕事をして、習い事をさせることがどんなに難しいことか、収入だけではなく家事や習い事の送迎、学校行事、その他諸々名前のつかないタスクをこなした母は偉大だと痛感します。


「母子家庭でも、習い事を通していろんなことを学んで欲しかった」

「つるりん(私)の手を引いて、妹をおんぶして、弟をベビーカーに乗せて歩いたあの頃が、私の子育てのハイライトだったな」


そんな母の言葉が印象的です。


私は高校を卒業して、県内の医大の看護学科に入学しました。母子家庭だったこと、県内出身だったこと、大学に通うために下宿が必要だったこと、留年はしない程度の成績だったこともあり、4年間学費は免除で卒業しました。


大学時代はある程度アルバイトはしていたものの、運動部に所属していてそこそこ部活に精を出した4年間だったので、家賃と生活費の仕送りと奨学金で生活していました。3年生になると看護学科は実習が始まるので部活を引退してアルバイトをしながら過ごす学生が多い中、実習中も部活を続けたい私にとって、お金のやりくりは喫緊の課題でした。

看護学生には魅惑の奨学金があります。病院からの奨学金です。

卒業し免許を取得したらその病院で一定期間勤務することを条件に、病院が奨学金を出してくれる制度です。お礼奉公ともいいます。

金額や勤務する期間は病院にとってまちまちではありますが、医療系以外の就活生からしたら就職先も決まってお金ももらえる制度ってなかなかないのかなぁと思います。

家からの奨学金は増やせない、日本学生支援機構の奨学金を増やすと学費免除の要件から外れてしまう、実習・部活・バイトの三足の草鞋は分身でもしないと無理。そんな私にとって就職先をとっとと決め、部活と実習に励み、卒業したらその病院で働くことはとても合理的な方法でした。

決めた病院は実家と大学の中間にある総合病院、奨学金は月額5万5千円、もらった年数だけ勤務すれば返済不要。3年生から4年生の2年間もらうので、たったの2年間働けばそれで終わり。部活と実習に明け暮れた大学生活を過ごしました。




それが失敗の元となることも知らずに。




無事に大学を卒業し、晴れて看護師免許を得て看護師となった私は無事にその病院の集中治療室の看護師となりました。循環器内科病棟を希望していたので少しがっかりはしましたが、もちろん心臓疾患の看護もできるのでまあいいかと思って、日々緊張しながら働いていました。

「看護師は生涯学び続ける専門職である」と誰かが言っていた気がします。

看護師になるための基礎教育でもちろん疾患についても看護についても一通り学びますが、やはり臨床現場と学校で学ぶことには大きな差があります。特に集中治療室に入るような患者さんの受け持ちはしませんし、実習でも1日見学実習があるだけでした。それに集中治療が必要という点では共通しています。

ですがその疾患が脳の病気なのか、心臓の病気なのか、はたまた交通事故なのかは分かりません。今日受け持った患者さんが次の日には一般病棟に移っていたり、はたまた不幸にも亡くなっていたり、勉強をしてもしても追いつかない日々でした。

また院内の看護師教育制度では、看護師1年目に自分の所属している病棟に多い疾患について3本レポートを書くという課題がありました。しかしどうでしょう、集中治療室。先述したとおり、入院してくる患者さんの疾患は様々です。3本レポートを書いて学ぶ必要がありますが、「3本以上書いてはいけない」とは誰も言っていません。

というわけで集中治療室に配属された私ともう1人の同期は日々の業務、看護技術の勉強、人工呼吸器といった機械の勉強、それに加えて1ヶ月に1疾患、合計12本のレポートに追われる日々が続きました。

レポートだって、1回出したきりで合格であれば大したことではありません。

何度も修正しては提出を繰り返します。日々教えてもらった業務手順をまとめて、それをまた指導の先輩に見てもらいます。気がつけばレポートは両面刷りにしてもホチキスで止まらないほど分厚くなっていました。

いい意味でも、悪い意味でも素直すぎたのかもしれません。

ちなみに定時は8:30〜17:15でしたがもちろんそれで済むわけがなく、朝は7:30には職場にいて、帰りは良くて20時という生活が続いていました。


読者の皆さんも薄々お気づきでしょうが、普通に心身ともに壊れました。

どちらかというと心の方がしっかり壊れました。

まず眠れない。

すぐ涙が出る。

昨日できたことが急にできなくなる。



看護師という仕事が大嫌いになりました。




正直、壊れた直後の記憶はほとんどありません。ただ、休職届けを出した7月のあの日は泣きたくなるくらいの晴天でした。

カウンセリングやリワークに通い、薬も飲んでなんとか部署を変わって復帰するものの、何度かまた休職して就職して2年半で退職しました。お礼奉公の2年は過ぎたものの、欠勤扱いの期間があったので、通算勤務扱いになったのは1年9ヶ月ほどでした。足りない3ヶ月の分は振り込みで返済しました。


さて仕事を失ったつるりんさん、さすがにニートになるわけにはいかず、進路を検討することに。

実はつるりんは、「ある程度働いたら大学院で勉強したい」という野望を大学4年生の頃から静かに抱いていました。もちろん、その野望は5年くらい働いたらかな〜〜とかふんわり考えていたものではありました。


あれ?来年度から進学してもいいんじゃない?


母校の大学の大学院の入試のスケジュール、指導教官の先生の受け入れ状況、倍率、全てがうまく噛みあうというあり得ない幸運がつるりんのもとに訪れました。

運命の女神、微笑むどころか爆笑してたんじゃない?

そこからはまあ、もう流れるまま。

退職した翌年度から2年間、修士課程で学ぶ機会を得ることができました。

メンタルクリニックに通院している中で、つるりんは学び知識を蓄え、じっくりと出力することが得意であるという特性が明らかになったことを裏付けるように、新社会人時代ではあり得なかったほどの勢いで研究に取り組みました。

(研究の進捗は勢いに比例しませんでした、先生ごめんなさいてへぺろ)

(意外なことに修了生代表に選ばれました、てへぺろ)

看護師免許があると、単純にできることが多いです。

運転免許があると車の運転ができるように、看護師免許があると看護師として仕事をすることができます。


派遣バイトとはいえ、いろんなところに行きました。デイサービスで盆踊りしたり、新幹線片道2時間かけて眼科の手術に関わったり。

学部の1、2年生の授業や実習指導のお手伝いをしたり。看護を初めて学ぶ学生さんの瑞々しい視点に、学ばせてもらえることの方が多くて。

看護学科の大学生は1、2年生のうちは看護の基本となる、例えばベッドメイキングや身体の向きを変えるという技術や患者さんと実際にコミュニケーションをとり、必要な看護を考え、学ぶ時期です。


そんな学習をしている学生さんが「今日は〇〇さん、たくさんお話ししてくれました!」、「体を拭くお手伝いをしたら、『スッキリしたよ、ありがとう』って言ってくれて嬉しかったです」ということを目をキラキラさせて話してくれたり、実習記録に記したものを添削したり。

どこかに行ってしまった「人に看護をする」ということの魅力を再確認できる機会となりました。



1番大きな経験になったのは、新型コロナウイルス関連の仕事ができたこと。

初日から、相談センターで1日に1人で60件は下らないほどの発熱の相談を受けたり。

軽症者療養ホテルでの看護業務には今も携わっていて、この記事を書いている今はちょうどその夜勤が明けたところです。

療養ホテルでの看護は、直接療養されている方との接触が気軽にできないというところ、得体の知れないウイルスに感染して体調を崩している心細さ、誰かに移してしまっているのではないかという不安、自責感を抱えている人がほとんどで、観察とコミュニケーションが本当に難しいと感じます。そして、看護師の役割の大切さを見にしみて感じます。この件はまた別の記事でお話ししましょう。


大学4年間で勉強したはずの「看護師の業務の幅広さ」を免許を取ってから痛感する日々です。

あの日、目先の魅力だけに惑わされて進路選択を間違えたから。

あの失敗があったから、今日も私は看護師が好きです。



#あの失敗があったから

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