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「がんばる」と自分に対して言ってはいけないのか問題

かわいい後輩がnoteを始めた。悩み多き青年だが、いろいろなことに気づく人だ。彼の気づきを、私もよく思考の種とさせてもらっている。今回ぶち当たったのは「がんばる」という言葉のようだ。

きっかけは会話の中で「頑張るという言葉を自発的に使うのは違う」といったニュアンスの発言を受けた事からです。
「頑張るというのは自分で言う事ではなく、他者から見て頑張っていると感じた時に使う言葉なのでは?」という問いかけに自分は答える事ができませんでした。

めんどうな問いかけだ。ある種のマッチョイズムを感じる。この手の論がめんどうなのは、何やらおかしい気がするのにおおよそ正しくて、めちゃくちゃ反論しにくいからだ。

ひとつ言えるのは、この発言の主はおそらく、自力でがんばれる恵まれた性質だということである。失礼な言い方かもしれないが、がんばることは当たり前くらいに思っているんじゃないだろうか。

大体の人はがんばれる。私もその中の一人だと思っていた。が、昨年の夏に抑うつ神経症を患ってから、がんばれない時が出てきた。おびただしいタスクや急激なプレッシャーがのしかかった際に、やらなきゃいけないのは分かっているのに机に座ることができなくなるのである。それどころか、体をベッドから出すことさえ困難な時もある。私もこうなって初めて気づいたのだが、これは病気でない人が想像するよりもずっとつらい。頭と心・体が乖離することは、なかなかに苦しい。

がんばれることはすごいことだ。そして、がんばれる量は人それぞれ違うのである。病気を患って初めて気づいたことだ。毎日仕事を12時間できる人もいれば、8時間でいっぱいいっぱいの人もいる。人によって、「がんばる」の度合いはバラバラなのである。そう考えると

「頑張るというのは自分で言う事ではなく、他者から見て頑張っていると感じた時に使う言葉なのでは?」

のおかしさに気がつく。どうして人によってバラバラなものを使って、他人を評価しようとしているのだろうか?

むしろ、自分以外に誰が「自分ががんばっている」かどうか分かるのだ?

他者から見た「アイツはがんばっている」という評価はとても曖昧だ。特段がんばっていないのに、結果が出た際に受ける「がんばったね!」という言葉の実感のなさ。全力を出し切ったのに結果が伴わず、「もっとがんばれよ」と言われた時のいらだちとやるせなさ。どちらも的を大きく外しているがゆえの感覚だ。

ずっとがんばってきて、不意に言われた「がんばったね」に涙する時もある。でもそれは称賛であって、評価じゃない。

数字なり結果なり、他人が評価できるものは他にある。一方、自分のがんばりを真に評価できるのは自分だけだ。であれば、他人には他人が評価できるものを提示すればいいし、自分にはそれに向けてがんばることを約束(したいなら)すればいい。

そして、がんばった時には、誰よりもまず自分が自分を認めてあげる必要がある。ある人のがんばりを評価するなんて、他人には絶対にできないこと、その人にしかできないことだからだ。

人が心に宿すコウペンちゃんを奪う権利は、誰にもないのである。


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