見出し画像

SNSで怒る人にならないために

Twitterで「#」をミュートワードに登録した。件のハッシュタグキャンペーンがきっかけである。私はミュートワードをかなり細かく設定していて、「@」も入れたりしていたのだが(知らない人同士の会話を見せられても、面白いとは感じない)、さすがに「#」を入れるのは憚られた。けれど、あれはどうにも耐えられなかった。

私がTwitterを見るのは、みんなの何気ない一言と生活、時折流れてくるウィットに富んだ言い回し、そして上手なイラストを楽しみたいからである。そこに、イデオロギーから発露される怒りが入る余地はない。感情的な言動は、目の前にいる人はもとより、たとえディスプレイの向こうから発せられたとしても、すこぶる苦手だからだ。

それに何より、怒りは触れた人の怒りをも引き起こすのである。

これは、怒りの非常にやっかいな特性だ。誰でも好きで怒りたくない……と思うのだが、正義の後ろ盾を得たと思っている人は躊躇なく怒る。怒るというか、論理性を欠いている場合も少なくないので、キレると言った方が適しているかもしれない。人間、向けられた感情を返そうとするものだから、怒りには怒りで返したくなるものだ。

怒りにつられて怒りを発した場合、待っているのは何か。私は、孤独じゃないかと思う。

リアルであろうと、SNS上であろうと、Socialであることに変わりはない。誰かがその振る舞いを見ているのである。一度怒ったが最後、「あの人は声を荒げて怒る人なんだな」と思われるのは自然なことだろう。職場で怒鳴っている人を見たときのことを想像してみてほしい。その感覚は、文字情報であるSNSであろうと変わらないはずだ。一部の投稿で見られるように、為政者をひたすら下品な言葉で罵っているのを見ても、同じだ。そんな人に、近づきたい人はいるだろうか。

それに、感情的になって良いことはない。実は私も先日、深夜に及んだ残業で心がすり減ったところで苦手なものを目にし、「●●を見るとイラッとする」と投稿してしまった。お得意のミュートで「●●」が目に入らないようにすればいいだけのところ、あの投稿で傷つけてしまった人もいたはず。本当に申し訳ないことをしたし、後悔もしている。それで私から離れてしまったとしても、文句を言う権利はない。感情的になるとは、そういうことなのだ。

人間は、誰でもいいしどんな理由でもいいから、何かを叩きたい生き物だ。だから怒るのは、楽しいことなのだと思う。怒れば怒るほど、自分の正当性が補強されていく。その怒りに賛同する人同士で承認しあい、いつしか自分が見えなくなってしまう。だからこそ、怒りを発しようとしたとき、その自分はどう見えるのか、立ち止まる癖をつけられたらと思う。

それが難しく感じる人、どうしても意見を言いたい人もいるだろう。私もつい言ってしまうときがある。まずは自分と同じ、かつロジカルに意見を言っている人を見つけ、RTやいいねをするだけに留めるのが良いだろう。あるいは、自分が怒りを感じる話題がどのように自分の目に入ってくるかを見極め、ミュートなり何なりで目にしないよう徹底的に対処するのも良い。SNSをどう使うかにもよるが、個人的には後者がおすすめだ。楽しい時間は、多い方がいい。

(……SNSで自分がどう見えるのか、という点では「どのメディアの記事をシェアする人なのか」はとても重要なポイントなのだけれど、蛇足になりそうなのでいつかまた。まとめサイトや夕刊紙を引っ張ってくるのは、ちょっと危ういので気をつけた方がいいと思う。)

何はともあれ、SNSというのは「反射」のツールだ。人の怒りに乗じて発した自分の言葉は、果たして本当に考え抜いた上での自分の言葉なのか。いや、すべてが考え抜いた言葉である必要はないのがSNSの良さなのだが、それだって何を言うかにもよる。「反射」でポロッと出た言葉が重なり、いつしか孤独になってしまうのは、あまりにも寂しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?