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小学校を「休学」して、わかったこと④/小学校に行くべき2つの理由

誰もが口をそろえて言うこと

前回にも書いたとおり、ウチの双子たちはひきこもっているわけではない。むしろ堂々と遊び、堂々と出かけている。どうしても周りの大人は、平日の昼間に家にいる子どもたちに、そこはかとない心配の視線を向けていた。子どもたちもそんな空気感を記にしていたけれども、そのうち気にならなくなったようだ。

でもやはり僕に身近な人は心配してくれて、色々とアドバイスをしようとしてくれる。そしてその”心配”は、誰もが口をそろえて同じ”2つのこと”なのだった。その2つは、つまり(少なくとも世間がそう信じている)”小学校にに行くべき2つの理由”なのだとわかった。

その2つの理由を、自分なりに洞察してみた。それは本当に事実なのだろうか。それとも”そう信じられている”に過ぎないのだろうか。

小学校に行くべき2つの理由の真偽

ひとつは、やはり「勉強」について。小学校に行かないで、勉強はどうするの?中学校へはいけるの…。さすがに僕もはじめは心配だった。でもよくよく考えてみると…

消去法で考えてみる。まずは体育は、野山で遊んでいるからOK。次に音楽は、例え作曲家の名前やクラッシックの曲を知らなくても、大人にはなれる。またYoutubeやTikTokなどで彼女らなりに音楽は楽しんでいる。図工は、ふたりとも絵を書いたりスライムを作ったり(大量の!)しているのでOKでしょう。社会は…僕の友人や檀家さんたちに会って話したり、僕の出張についてきたりして実地で学んでいる(だろう)。理科は、おばあちゃんとお料理をしたり、ひまわりを育てたり、そもそも野山で遊んでいるから大丈夫だろう。

残るのは国語と算数。
やはり字が読めなければ、世の中に出てもつまらないだろうし、”暮らし”のなかで必ず”計算”は必要になってくる。そう、つまり絞りに絞って極論で言えば、「漢字が読めて、(ある程度)計算ができる」が、必要な学力ではないだろうか。だとすれば、家にいてタブレットで学ぶもよし、公文式に通うでもよし、どうにでも学ぶことはできるのだ。

不思議なことに新型コロナウィルスによる非常事態宣言下で、全世界の子どもたちは”休学状態”に置かれている。僕と双子たちが2年かけて実験してきた(?)休学を、世界中の子どもたちがいま体感しているし、まさに「学び」そのもののあり方が、大きく変わろうとしてる。

特殊な”社会”

2つ目は、「社会性を育む」ことについてだろう。「友だちと遊ばなくて大丈夫か」「共同生活に馴染めなくて、社会に出て大丈夫か」「社会性を、どうやって身につけるのか」と、こういうたぐいの心配をされ、また自分もしないわけではなかった。

しかしよく考えてみれば、学校とは「同じ年齢の子ども”だけ”を集めて、先生と生徒という”完全トップダウン”式の集団で暮らす」という、ちょっと特殊な「社会」なのだ。ほんとうの「社会」には、様々な年齢の人がいて、様々なスタイルの組織や関係性がある(はず、でしょう?)。にもかかわらず学校は、その「特殊性」を疑われることなく、「社会性を育む」場として信じられている。

同じ年齢の人間”だけ”が一緒に生活する”社会”…。なにか特別な目的のためにその環境で”一定期間”(1年とか2年とか)過ごすことは在り得るけれど、子どもたちは最低、義務教育の9年間をその環境で過ごすのだ。それが”普通”であると信じられ、誰もが疑いにくい中で‥。

学校に行かないことで、ウチの双子たちは確かに友だちと遊ぶ機会は少ない。けれど僕を始め”大人”との交流は”学校組”と比べて格段に多い。また幸いにも近くに”休学友だち”がいるので、一緒に御飯を食べ、日が暮れるまで遊んでいる。

つまり、小学校に行くべき2つ目の理由である「社会性を育む」ことも、学校という”社会”の”特殊性”を考えれば、行かなくても大丈夫なのではないだろうか。(健全な社会性を獲得するんではないだろうか。)

なんとなく感じていた”大丈夫”

僕は、子どもたちが”学校に行かなくても大丈夫なのではないか”となんとなく感じていた(学校に”行けなくとも”かもしれない)。

自分自身には学校に行かなかった経験はないのだけれど、双子たちのほがらかな様子を見ていると、根拠はないけど大丈夫だなと思えてならなかった。

そして自分自身でよく考え、”観察”と”洞察”を丁寧に積み上げていくと、やっぱり学校に行かなくても大丈夫だろう、と確信することができた。学校に行かない、という選択肢の中でも、子どもは健やかに学び育つだろう、と。

もちろん、彼女らの人生は彼女らのものだからどうなってゆくかわからない。でも少なくとも小学校という基礎的な社会のフォーマットから外れる身としては(w)、”行かなくても大丈夫だ”と思えることで毎日がやはり楽になった。

そして同時に、学校に行かないことで”たくさんの素晴らしいもの”を得ていると気がつくことができた。

次回は、それついて書こうと思う。

サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。