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小学校を「休学」して、わかったこと③/子どもは、わかっている

双子の日常

さて、その双子の「休学児」の日常は、実に”普通”に流れている。朝は8時ぐらいに起きてきて、ママの出勤を見送る。おばあちゃんと連ドラを見てから朝ごはん。何をしなくてはならないわけじゃないので、したいことをなんとなくしている。

タブレットできせかえのゲームをしたりyoutubeを見たり、専用のタブレットで進研ゼミで勉強したり、おばあちゃんとパンケーキを焼いたり、絵を書いたり、二人でバドミントンをしたり。木登りをしたり、花を集めて僕が出かける用事についてきたり、それが時には北海道や大阪で、そんな旅をしたり。(一時スライム作りにハマって、youtubeで研究して膨大な量のスライムを作ったっけw)。
幸いにも”双子”はいつでも友だちがいるようなもので、相手に事欠かないのがとてもいい。

つまり双子たちは、「したいこと」を、のんびり気が済むまでやっている。(強制されているのは進研ゼミぐらいw)。これは”普通”というより、「健やか」じゃないだろうか。
そこで僕はあることに気づいて、背筋が少し寒くなった。

やりたいことは何か?

子どもたちがしたいことって、こういう一見他愛もないことなんだ。スライム作ったり、パンケーキ焼いたり、ちょっと出かけたり…。でももし、”学校に行かなければならない”とすれば、子どもたちはそのほぼ全てを諦めなければならない。学校のカリキュラムには、スライム作りもタブレットも木登りもない。全てを諦めて、大人が決めたカリキュラムを”しなければならない”。少なくとも、大人の定めた選択肢から選ばなければならない(学校とか教科とかね)。
そしてそれはなんと、学校と考えれば6+3+3で12年、2歳からこども園などに預けられるとすれば2歳から18歳まで16年間(!)そんな毎日を過ごすことになっている。

そして18歳で晴れて”学校”というものに別れを告げる時が来る。就職でも進学だとしても、ここから先はそれぞれの意志で学び、暮らすようになる。しかし皮肉にもこの18歳を前にして学校や社会は子どもたちにこう問いかける。

「(社会に出て)やりたいことはなんだい?

子どもたちは戸惑うだろう。文字通り”ものごころつく前”から16年間も、自分のやりたいことをなんとなく諦めさせられてきたのに、社会に出る段になって逆に「やりたいことはなんだい?」なんて…。

時間という檻

休学してみて気づくのが、子どもたちに「時間がごっそりある」ことだ。学校もクラブも宿題もない。(いままさにコロナ下で全国が”休学状態”になっているから、ほっとしている子どもたちも、また親も少なくないのではないだろうか)朝無理やり起こして朝ごはんを掻き込ませ、怒鳴ったり喚いたりして送り出すこともない。
学校から帰れば帰ったで、やりたくない宿題をあの手この手で”やらせる”必要もない。親にとってもずいぶんストレスが少なくなった(宿題が無いのは最高)。

子どもたちが、そして親がどれだけ時間に追われ、急かされた毎日を送っていたかがよくわかった。それはまるで子どもたちを”時間という檻”に、閉じ込めているようなものだ。

子どもは、わかっている


双子の妹の子が、学校へ行きたくないと意思表示したときのことを鮮明に覚えている。その時4年生だった彼女は、宿題がしたくなくて茶の間のテーブルで半べそかきながら僕にこう言った。

””学校で遊べる時間は長くて15分。あとは勉強や準備や片づけ。こどもって、もっと遊びたいんだよ!それに宿題!どうして宿題なんて出すの?学校は勉強するとこだからいいよ、勉強するのは。でもお家はちがう。お家は家族とのんびりしたり楽しむところ。それなのに宿題があるからそれも台無し!そんなのおかしいよ!””

僕はあまりの正論に文字通り返す言葉がなかった。ぼくが子供なら、きっと同じことを言うだろう。いや、思っても言語化できないままで時間が過ぎていってしまうのかもしれない。
そうだよ、もっともっと遊びたいよね。勉強だってしてもいいけど、家族とのんびりすること、楽しむこともとても大事だ。わかってる。でもなぜそういう暮らしをさせられないんだろう?どうしてこんなに、”時間”で、子供たちを追い立てなければならないんだろう??
その矛盾を、子どももわかっているのだ。

健やかな休学児と、親

日中、双子を連れて出かけると、出会う人がちょっと驚きながらこう声をかけてくる。「あれ?学校は?」はじめの頃は困ったような顔をして僕の顔に答えを探そうとしていたけれど、最近では「私たち休学してるんですぅ」と、答えるようになった。大人たちは取り繕ったように、そっかそっか、と笑ってくれる。
学校に行かなくなった頃は、やはり双子たちもちょっと荒れていたように思う。でも”休学”してからというもの、どんどん健やかさを取り戻し、天真爛漫にのびのび毎日を楽しんでいるように見える。
そして僕自身も、ゆっくり時間をかけて子供と向かい合うことができている。そして、子供を追い込まないで済むことにほっとしている、。


次回④は、「学校はなんのためにあるのか?」「親として、どう”教育”を与えるべきなのか」に関する気づきを書きたいと思います。

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