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無意識メディアな余白

芸術とは無意識の接点

芸術作品とよばれるものは意識をまたぐ無意識への接続部分のことだとぼくは考えている.

芸術作品と呼ばれるものをつくってはみるけれどもそれが芸術だとは考えたことはない.作品がだれかの無意識との接点になりえたとしてもだれかの一部の無意識を圧縮して表徴させただけであってぼくはどう抗おうと主体にはなれない.

でも作らないといけない.作らないと肺は空気をうまく供給してくれない.


何かつくるとき,何か形を持たせてやるとき,社会との互換性を高めるための効率化の名のもと,否応無しに何かしらのフレームが付き纏う.

でもフレームを持たない作品を創るにはどうすればいいだろって俯きながらとぼとぼと考えてる.大学一年の頃,はじめての合評で作品がみんなの前にずららと展示されたとき.

フレームがなければ,フレームがなければって考えてた,


フレームという境界線を持たなければつまりそれは世界になる.

フレームという物理的にも精神的にも境界線をもたない作品を創ることができればそれは世界になれると考えていた.

つまり,世界になれるとは生きるにおいて日常に溶け,文化として溶けていくということ.現代で生きる前提条件になりうれば意識をまたぐことができる.

でも,なれない.それは知ってる.
ぼくらが制作においてできるのはせいぜい余白を完成させることだ.



フレームからの脱却

規格がなければ非効率だし,手間でしかない.
ぼくはデザインや制作物において規格という秩序をもってフレームを超えることを意識してつくる.

余白だ.


想像というイメージはフレームを持てない.これはフレームの中でしか生きられない制作者の懊悩の極みとぼくは考える.

余白のための作品.作品は余白のための演出でイメージへの接続部であり媒体でしかない.

何かを作りたいとぼんやりと毎日考える僕は作品なんてあってもなくてもいいと作品で埋めれなかった空白を尻目にいつも思わされる.すべては余白のためにある.

そんな無自覚でひたすらに佇む余白をぼくはもがくほどに探している.



文言/うめの瑳刀
写真/Jr

のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.