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網膜的な表現

視覚的と網膜的.

網膜的とは意識を起こさない,肉体的作用という表現.
視覚的とは視たものに対して意識し,感ずるという精神的な部分が加わる.

とぼくは認識している.

クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。誰もがそこで間違っていたのです。網膜のスリルなんて! 以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。私に反網膜的な態度をとるチャンスがあったとしても、それは大した変化をもたらしませんでした。今世紀全体がまったく網膜的なものとなってしまってるのです。 ーマルセル・デュシャン「カンバスとの対話」、1996年

今日のnoteはデュシャンさんに感化されてしまったので自分が考えたところまで書く.ただただ,疑問を立てる回になります.


立体視差のことだろうか?

網膜的といえば,肉体的な情報だろう.

本来,君主制のもとに在った絵画,時代とともに在った絵画が,その思い上がりで時代を先駆けようとし,絵画のみの"網膜的”表現を行った驕りのことを言っているのだろうか.

また,それが加速して悪化し,絵画という形式から逸脱し,形式から飛び出し,平面から立体への移行によって時代性を強調しようとした当時の時代を築き上げた彼らの至りのことだろうか.

形式に囚われ,自由に囚われることで,文化的背景を背負わず,思い上がったままの個人になったということなのだろうか.それゆえに宗教的,哲学的,道徳的な意味を背負うことを忘れてしまったということなのだろうか.


あれ、違う。

クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。

立体物なんて言ってないな.絵画の範疇でのことを言っている.はい,迷子になりました.



…こういうnoteもあってはいいのではないのでしょうか.もう,開き直ってみます.ひとまず,本日のぼくの思考のめぐりはここが限界でした.毎日noteをあげることが重要ということで.では,また明日….


文言/うめの瑳刀
写真/Jr


のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.