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ジブリの瞳
ジブリの登場人物はまっすぐな瞳をしている.
瞳から意志の強さを感じる.それは"生"が当たり前ではないことを知っているから,瞳に灯火が宿っている.
ぼくの瞳は灰色に霞んでいる.
そうか,ぼくらは生きることに感覚を失くしてしまったからかと,思った.
昨今の日本では相対的貧困に陥っている層がある.
そんな層の大概は"生"への疑問符をとうに失くしている.
将来の夢
小学生に将来になにになりたいって聞いてみる?
「プロ野球選手!」「お花屋さん!」「お嫁さん!」「公務員!」
どれも生きることは当たり前で,どう自分らしく生きるかを考えている.
そんな回答の中に"生"を疑う余地すらない.
原始と近代
原始と近代の欲求プロセスをマズローの5段階欲求説をもとに考える.
原始
原始では本能的にぼやいてくる生きる意志が高次な欲求に繋がっていた.生理的欲求を満たそうと米を収穫するときも,収穫を通して人が交流し,そこから社会的欲求へと結びつき,そのなかで肉体的な若さであったり,機転の良さなどで承認欲求を満たすことができた.
近代
近代では生きることを家電が補ってくれる.生きる意志を失くしても呼吸ができることが可能になった.そこに人はいらない.金があればいい.
社会的欲求を満たそうと思えば履歴書やプロフィールを書くところから始めないといけない.それは自分で自分の首を絞める作業だ.それ以上,後ろに退くことはできない.退けば契約違反だ.そんな中で承認欲求を満たすのは難しい.コンビニもコンビニのレジ打ちが出来るから採用されるわけで,期待値ありきで,出来ない奴はハジかれる.
社会的欲求を満たそうと思えば原始では身近な個人の役割を考えることが大事だったものが近代ではその側面は衰え"個人"ではなく第一に,"能力"が重視される.
相対的貧困の近代で語られるもの
ぼくが生きる現代において話される内容は相変わらず「どう生きるか」であって"生"についての疑問符はない.
今となっては当たり前だ.
だけれど,ふいに理解るときがある.理解る人間がいる.
ジブリの瞳が思い出される.まっすぐに生きようとしている.
将来,これがしたいという意志の強さを垣間みるとき,はっきりとした"生"への疑問符がみえることがある.
のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.