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テレビとラヂオと

コミュニケーションのとき,ぼくらは言葉を使う.

各メディアをわざと通して感覚を絞ることもアリだなと思った.
電子機器によって繋がる各メディアは空間共有の下位互換と思われがちだけど,そうではない.時間や場所を制約しないということを差し置いても活用方法があるなと思った.

各メディアの性格を理解して利用していくべきだと思った.

[空間共有]
視覚 + 聴覚 + 触覚,(味覚,嗅覚)

[ビデオ通話]
画面サイズの視覚 + 聴覚

[音声通話]
聴覚


画面サイズの視覚

ビデオ通話の画面サイズだと動きが制限されるし,5Gの繋がらないままでは画質もそこまでに安定しないから「参考書のここ!」とかいわれても分かりにくかったりする.

ビデオ通話のいいところは“表情”が判別できること.

だからグループでのディスカッションには向いていると思う.反応をみる分には十分だと思う.

でも,それ以外には画面サイズの視覚情報は蛇足なような気がする.


残される言葉

音声通話の場合は,“声”がないと存在を感じることができないから,スカスカの内容でも,わざとらしく息を吐いたりして間を埋める作業が必要.

話も相槌では伝わらないから,ときおりの返事が必要.
雰囲気では伝わらない,クスりとする面白い話でも声に出して笑う必要がある.
笑顔を音声に変換する作業が必要.

言葉にしないと伝わっていないことは大いにある.

ある一定の関係を築けたとしても適度な音声通話はしてみてもいいと思った.テキストでは完全な情報と化してしまうし,わざわざテキストを打ったというコストが仇になる.

言葉にしないと伝わらない.言葉にしないと伝わらない環境.
空間まで共有してしまうと,視覚情報が優位になって言葉は補足情報になる.
画面サイズの視覚情報でも,言葉は補足情報によってしまう.
友人と仲良くなったつもりでいても音声通話という環境を言い訳に踏み込んだことが言える.認識を確認し合えるかもしれない.

ただ,ここで留意しなければならないのが,“顔”が見えない音声通話だからという理由に,普段言えないことを吐き捨てる罵詈雑言のことではない.

軽微なお日頃のことだ.

まぁ,でもなんでも言える関係がいいか.そんな友人いたっけかな.
そんなことを高校時代の友人に電話をかけて,思った.


文言/うめの瑳刀
写真/Jr

のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.