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たたずむ,いわゆる芸術家


芸術家には2つの人種があると考えている.

後発的に芸術家になった無自覚な者と,芸術家という概念を弁えている自覚ある者。

無自覚な芸術家

過去の君主制において絵画は宗教的な意味や哲学的な意味や道徳的な意味を無自覚にも帯びていた.それは絵ということが手段であり,その受注に応えているという意識で自らがが芸術家であるという驕りは希薄なものだったろう.

まず第一に生活があったし,その中で生きていくための手段が絵画であり,そこに内包されるのが表現だったのだと思う.

過去のぼくのnote,『網膜的な表現』で言及しきれなかったことであるが,生活と乖離した表現であるために,後者の「芸術家という概念を弁えている自覚ある者」は厚かましくも網膜的な表現になっていったのだろう.

視覚的な表現ではなく,ただの事象として網膜に映るという無碍な状況に追いやられたのだと思う.

現代ではクリエイターは芸術家であるとぼくは思う.

資本主義に基づきロジックを立ててデザインをつくり,顧客に分かりやすいものをつくり,収益を得る.社会的にはその区分が効率化のために必要だと思うが,精神的にはビジネスと表現を別概念と捉える必要はないと思う,いずれ文化に溶ける.日常に馴化する.さすれば,いずれ時代に圧縮され代表的なものが化石になれる.


自覚ある芸術家

自覚ある芸術家も美術館に飾られるような作品を作ることはできる.

それは文化を能率的に表徴させたものだ.時代を俯瞰し,現代をトレースする.さすれば自覚ある者が芸術家と称される.

だけれども,それは圧倒的な他者から抑圧されるように押し出されたものではなく,生活の掃き溜めとして滲出したものでもないものが多い.自覚のある芸術家には限界があるように思う.ひたすらに佇む無自覚な芸術家とは埋まらない差があるように感じる.


芸術家は無自覚で在らなければならない

ぼくも今まで芸術家で在ろうとした.

なんとも愚かだった.

人物を職業的に理解するために芸術家という概念が必要だったことに,いわゆる芸術家の方は気づいている.ぼくは今まで気づかなった.愚かであった.

いわゆる芸術家の影を,虚像を,周囲と足並みを揃えて追いかけていた.

いわゆる芸術家は宿痾をかかえ,蹲るしかない巨大な虚無を抱え,いつ死んでもいいと魂を作品として物質化し,世生を余韻で生きている方たちだ.

そんな人はぼくのように一過性の承認欲求を満たすためにタイピングなどしない.

ひたすらに佇んでいるんだ.
ぼくはどれだけ捨てることができるだろうか.


文言/うめの瑳刀
写真/Jr



のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.