パン

ある夏前の夕方、俺は電車に乗っていた。仕事から家に帰るためである。まだ西日が高くて窓から入る日光が眩しい。電車はぎゅうぎゅう詰めではないが比較的混んでいて座ることはできない。俺はドア付近に立っていた。
すぐ横には若い女性が立っている。たまに朝同じ電車になることがある女性だ。通勤時間が同じと思われる。ただ帰りに一緒になることは初めてのことだ。
彼女は会社帰りなのだろう。口の空いたトートバッグを肩から下げている。そしてそのトートバッグから大きくはみ出すように長いパンが刺さっている。パンと言ってもパン専門店のそれではなく、スーパーやコンビニで売っているパッケージされたものである。菓子パンで表にカスタードクリームのようなものが塗ってあって少し焦がされたアーモンドのスライスが乗っている。大きくて長いパンだけど、生地がふわふわそうなのでそんなに重たくないのかもしれない。
「彼女の今日の晩ご飯か明日の朝ご飯なんだろうか」
そんなことをなんとなく考えながら満員電車に揺られていた。
そして電車は彼女と僕が降りる駅に到着した。
ターミナル駅なのでどっと人が流れ出て、隣にいた彼女は押し出されるように俺の前の方に行ってしまった。
俺は帰りに一杯飲もうと思い行きつけの居酒屋に立ち寄ることにした。
改札を出て長い階段を降りている時である。足元にあのパンが落ちているではないか。彼女のトートバッグからはみ出ていて恐らく落ちてしまったのだろう。俺は咄嗟にパンを拾い彼女に渡そうと追いかけたが、彼女はもう先に行ってしまったのだろうか見つけることは出来なかった。

俺は途方に暮れた。
「こんなパン俺は食べないしなぁ、どうしたもんだろ」
俺はこの手のパンが好きではない。好きではないのは味ではなく、小麦粉の原産地や農薬、パッケージに大量に表示されている良くなさそうな食品添加物のせいだ。職業柄健康のセミナーを開催したりして専門的知識はそれなりにある。それで昔は平気で食べていた菓子パンがあまり好きではなくなった。そもそも菓子パンなのに賞味期限が長いのも気に食わない。
警察に遺失物として届けるほどのものでもないし、今すぐ捨てるのには忍びないし、とにかく持ち帰ることにして鞄の中に入れた。
そして俺はこのパンが鞄の中にあるのを忘れたまま2日が経過することになる。

2日後の日曜日に近くの高校のグラウンドで野球部が練習試合をするのを見に行った。なぜなら試合相手が甲子園優勝校だというので、数十人の見物客がいた。
俺はグラウンドの階段に腰を掛けて試合を観ていた。強豪校はさすがに強く試合は圧倒されていたがこのレベルになるとプロ野球を観ているかのような見応えがあってしばらく観ることにした。
鞄の中からサングラスを出そうとチャックを開け、鞄の中をまさぐった時だった。
「あ、パンがある」
少し荷物に押されてひしゃげてはいたが長いパンは健在だった。賞味期限も明日までいけるようだ。俺はもう一度パンを鞄に戻した。

「隆さん」
俺の名前を呼ぶ男の声がする。数段後ろの階段に座っていた男が僕の横に移動してきた。新庄である。仕事の後輩で「ケン」と呼んでいる。
「おおーケン、こんなとこで会うなんて奇遇やなあ!どないしたん?」
「はい、この高校僕の出身校なんです」
「え?そうなん?そう言えば野球部って言ってたよな」
「はい、友達も来てるんです」
友達はどこか別の場所にいるのだろう、僕のところに連れてきて紹介するとかしないところをみると多分女性なのだろう。

「あ、じゃあ僕友達んとこ戻りますね」
「あ、ケン、待って」
俺は咄嗟にパンを取り出し、
「これ貰いものというかパンなんだけど明日まで賞味期限あるみたいやし、ケン食べへん?」
「あ、いいんですか?」
「もちろん」
「これどうしたんですか?」
「いや、駅の階段で拾ってんけどな、まあ落ちてたいうより電車乗ってた女性の鞄に刺さってて、その後落ちたみたいなんで、毒入りとかちゃうで」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
そう言うとケンは少し慌てた風に去っていった。

ほんの数分後ケンと女性が僕の後ろに移動してきた。
「隆さん、このパン落としたのはこの子ですか?」
俺は振り向くと、ケンの横にいるのは例の電車の女性だ。
「あ、貴女は!」
「こんにちは。よく朝にお会いする方ですね。すみません、落としたパンとこんなところで再会するなんて!拾っていただいてありがとうございます」
彼女は笑っている。
通勤時間に見る彼女も比較的ラフな格好ではあるが、今日は休日ということもあり、洒落たシャツとショートパンツでなかなかいい雰囲気だ。顔は決して美人ではないが明るい女の子だというのが雰囲気でわかる。
「俺階段でパンを拾ってすぐに追いかけたんやけど、もう貴女を見つけることができなくて」
「いいんです、私も家に着いてからパンが無いことに気づいたんで」

俺はケンに訊いた。
「え、ケンの彼女?」
「あ、いえ、、」
2人はなんとなく顔を見合わせた。
「あ、友達です。最近ちょくちょく遊びに来てるんです」
ケンはそう答えた。
ケンは大人しい青年だがそれなりにモテそうで、まだ彼女にはなってないが最近遊ぶようになった仲なのか、本命の彼女以外の女友達なのか、ただの火遊びか、なんとなく俺は察知して答を濁すことにした。
「へえー、そうなんや、よろしくね!俺、隆と言います」
「あ、よろしくお願いします」
彼女はそう言って2人は再び去っていった。

更に数分後今度はケン1人が俺の横に座った。今度は何やら意味ありげな感じだ。
「隆さん、僕、付き合ってる彼女いるって言ってましたやん」
「おお、あの子、、、ではないんやな?」
「そうなんです。周りの人には黙っといてもらえませんか?」
「ああ、そう言うことなら任しとけ」
「すみません」
「え、あの子とはヤッたん?」
この質問は単刀直入過ぎたかも知れないが2人の事情を知るには一番いい。
「あ、ヤッちゃいました」
「なるほどな」
「あ、でも付き合うとか無いんで。本命の彼女とはもちろん今も付き合ってるんで」
「わかったわかった!そういうことは任せとけって」

そう言ってる間に、後ろの方でとある男の荒げた声が聞こえた。
「おまえ最近浮気してると思ったらこういうことやったんか!」
振り向くと、座っている彼女の後ろに仁王立ちしている強面の男が叫んでいる。
「ただの友達や言ってるやん」
「ただの友達となんでこんなとこおるねん」
「あなたこそなんでここにいるの?私をつけてきたの?」
「っせーな!誰やねんあの男は!おまえんちに行ったらあいつと出てくるとこ見たからここまできたんや」

その男の剣幕にもびっくりしたが、ケンを見ると顔がひきつっている。運動神経抜群なケンは立ち上がると全速力で走って逃げていった。
男は追いかけようとしたがケンのスピードには追いつけないと察して諦め、俺の方にやってきた。
「お兄さん、すいませんがあの男のこと教えてくれませんか?誰なんです?」
「ああ、あいつ?あいつは仕事の部下ですよ」
「俺の彼女と会ってるのは知ってたんですか?」
「いや、知らない。さっきたまたま会ったんや」
「ほんますか?」

俺はよく知らないカップルの修羅場に居合わせるのもなんとなく嫌なので、そそくさと立ち上がり家に帰ることにした。
その男と彼女はずっと言い合いをしている。その後2人がどうなったかはわからない。

翌日仕事でケンと顔を合わせた。
「隆さんすんません、あの後どうなりました?」
「わからん、俺もすぐに帰ったからな。おまえもあんまりヤンチャしたらあかんで」
「すみません。彼女からは連絡ブロックされたんでわかんないんですよ」
「まあ気をつけや」
「はい、すみません」

そしてその翌朝、俺は電車で彼女と一緒になった。
「あの、隆さん、先日はすみませんでした。お見苦しいところをお見せして」
「あー、いいよいいよ、ところであの彼とはどうなったの?」
「あの後大変で、とにかくLINEの履歴は無理矢理見せろと言われるし、着信拒否させられたんです」
「そうやろね、あの人は彼氏?」
「一応彼氏なんですけど、結構嫉妬深くて、まあ私も悪いんですけど、それで距離を置いてたらあんなことになってしまって」
「それは大変やったね」
「あの、隆さん、お願いがあるんですけど」
「なに?」
「ケンさんと連絡取りたいんですけど、仕事場の場所とか教えてもらえませんか?」
「あ、貴女はケンと付き合いたいの?」
「そう思ってるんですけど」

俺は一瞬躊躇した。ケンには本命の彼女がいる。果たしてここで2人の仲を取り持っていいのだろうか。
結局彼女が辛い思いをする結果にしか恐らくならないだろう。
俺は「また連絡するから」と言って、とりあえず彼女とLINE交換をした。

ケンにはこの事情を話してどうしたらよいかを訊いた。
「僕はただの火遊びだったので、彼女には仕事場は教えないで欲しいです。僕も反省してますので」
「いや、俺はよく電車で彼女と会うねんからうやむやにはできへんわ」
「そうですよね」
「ケンに本命の彼女がいることを言った方が良くない?」
「それは、、ちょっと、、」
「いやそこは潔く受け入れなあかんやろ?」
「ですよね、、」

そうして俺は昼休みに彼女にLINEをし、ケンには本命の彼女がいること、もう連絡を取り合うのは辞めたい、ケンも反省している旨を、彼女には可哀想だが告げることにした。
彼女からすぐに返信があった。
「隆さん今晩会えませんか?」
「どうして?」
「色々お聞きしたいので」
「いや、でももうケンとはどうにもならないと思うよ」
「違うんです。彼氏とはどっちにしても別れたくて、相談に乗って欲しいんです」
「でも俺と2人で会ったりしたら彼にバレるかもよ?」
「大丈夫なんです。彼は今日は夜勤でいないんですよ」

俺は敢えて地元の駅を外して、梅田の繁華街の居酒屋で彼女と飯を食うことにした。
彼女の名前は柚葉(ゆずは)というらしい。26歳のOLで、ワンルームマンションに一人暮らしをしている。彼女の田舎は四国のど田舎で、20歳から大阪に出てきて働いている。
彼氏は夜勤がシフトにある工場で働くガテン系で3年ほど付き合っている。最初は優しかったのだけど、柚葉がお酒を飲むと結構男にだらしない部分があって、彼がだんだん嫉妬深くなり、最近ではたまにだがDVもあるとのこと。
「それは別れた方がいい」
「私もそうしたいんだけど、どうしたら彼と完全に縁が切れるのか、引っ越ししてもまた探してくるんじゃないか、職場もわかってるし、、」

俺は他人の恋愛話には首を突っ込みたくない。そんなものは自己責任であり、他人が介入することではないと思っているからだ。
「まあ俺は話を聞くことはできても、何もしてあげられないよ」
「ですよね、それでいいんです。ありがとうございました」
そうした会話をしてしばらく世間話をしたら店を出て彼女と共にいつもの路線に乗り、最寄駅で別れた。

それからというもの柚葉からはちょくちょくLINEで話したり、通勤電車で会ったりする。
彼女はまだケンのことが好きで、彼氏は相変わらず未練がましくたまに突然家に来て、その時は抱かれてしまうこと、などを話してくれた。

「どうだろう、引っ越しして携帯の番号も変えて、仕事も変えたらどうだ?そしたら彼ともキッパリ別れられる」
「でも、仕事なんてすぐに見つからないし..」
「まずは家を引き払って、今の仕事を辞めて、次の仕事が見つかるまでの間うちに居候すればいい」
「え?隆さんの家ですか?」
「ああ、柚葉が嫌でなければね。まぁ俺と住むとか嫌やろうけど」
「そんなことはないです。でも申し訳ないし」
「彼氏と別れたいんだろう?」

結局柚葉は2週間後にうちにやってくることになった。携帯番号も変えて、彼氏とも清算した。
俺の家は2LDKの独身暮らし。
一つの部屋を趣味のワインのコレクションの格納庫にしてあったので、その空きスペースを柚葉に使ってもらうことにした。
「狭くて悪いが、ここで我慢してくれ」
「ありがとうございます。なんとお礼を言ってよいのか」
「気にするな気にするな」

柚葉とは男女のケジメをつけるべく俺は極力2人の時間は過ごさないことにした。
でも柚葉は食事も作ってくれるし、掃除や洗濯もしてくれるので俺はとても居心地がよかった。
そして何より柚葉はお酒が好きだった。俺のワインのコレクションの話をしているうちにワインにも興味を持ち、食事の時に一緒にワインを飲むようになった。
「私ワインの奥深さを知ってとっても楽しいです。隆さんありがとうございます。ワインの勉強をしたいので、ソムリエ試験を受けてみようかと思います」
「えー!柚葉、あれは超むつかしよ」
「何事もチャレンジですよ!」

柚葉の前向きで明るいところが俺はとても気に入った。それからというもの柚葉のソムリエ試験合格を俺は応援することにした。
翌年、柚葉は難関なソムリエの資格を一発で合格し、ワインバーで働きながら女性ソムリエとしてSNSでも活躍したくさんのフォロワーもでき、インフルエンサーとして収入も取り始めた。
柚葉主催のワインセミナーには沢山の受講者が来て、彼女は一躍業界の人気者になった。
そして2年もしないころ柚葉は立派なマンションに引っ越すことになった。

もちろん、今俺はそこに住んでいる。30歳近く歳の離れた嫁の柚葉とともに。

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