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デタラメと呼ばれた夢の続きはまだ


noteを書き始めた頃にやんわりと書いたまま、別に隠すつもりもなかったのですが、学生時代から競輪選手になるのが夢でした。

もともとは、オグリキャップ、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、ウイニングチケットなどに魅せられて、競馬業界に興味があったのですが、成長期にグングン背が伸びてしまい、競馬がダメなら競輪かということで。

全国は函館から熊本まで競輪場があり、各地いろんな所に行けるし、普通にサラリーマンやるよりおもしろそうだと。

そして何より、普通にサラリーマンやるより稼げますし、年末のグランプリの賞金は1億円ですから。


結果、夢破れた自分が言うことじゃないですけど、各地の怪物級が努力して、やっとプロになって、またそのひと握りだけが活躍できる野球やサッカーよりは、まだ競輪選手のほうがプロになれる確率が高いです。

自分もバレーボールをやりながら、陸上の大会で地区の代表になる程度でしたが、バレーも陸上も、全国的に見たら全く通用しないレベル。

まわりの大人からは学校も行かずサイクリングばかりしやがってと揶揄されていたので、親としては大学に行ってほしい気持ちはあった思いますが、高校卒業と同時に学問とはスパッと縁を切りまして、練習に明け暮れました。


自分で決めた道とはいえ、自転車の練習は毎日200km以上乗ったりとにかくキツかったです。

毎日、今日死んでも我が人生に一片の悔いなしと言える濃密な日々。


ところが簡単にプロ試験には受かりません。

そのうち、腰を痛めて1年近く自転車に乗れない時期がありました。

リハビリの毎日に焦る日々。

なかなか状態が上がらずで、もうやめた方がいいんじゃないかと思ったある日。

夜の番組で『パパパパパフィー』っていう番組を見ていた時、気功師の先生が出てきて、

「肩や腰で痛いところがある人、今から気を送りますので受け取ってください」という胡散臭いシーン。

そんなまさかと柔軟体操をしてみると・・・あれ、腰曲げても痛くない!


そこから再び練習を始めて、タイムも出るようになり、高松競輪場で1次試験合格。

最終試験は、静岡の修善寺にある競輪学校で2泊3日の学科、実技、面接、身体検査などなど。

ここで勝負弱さが出てしまい、実技の試験の200m走で10.8秒以内が合格の目安のところ11.0秒を叩きだしてしまい不合格。

0.2秒なんてこの文字読んでいるだけでも過ぎてしまうような時間ですが、自転車で0.2秒なんていうともう絶望的な差です。


当時は受験資格に年齢制限があったので、ここで引退ということになりました。

何かに真剣に打ち込んで負けると、泣いてはだめだと思っていても、涙を止められないし、あの時、自分のひと区切りにと記念に初めて飲んだビールの味は今でも覚えています。

競輪選手で稼げるだけ稼いで、40歳くらいで引退したら、道楽で物書きになろうとした浅はかな人生プランのツケが今きていて、なるまいと思っていたサラリーマンをやっていますが、あの時の経験が自分を強くしてくれたし、いくつになっても夢は持っていたいです。


最近自分の状況を見かねたいろいろな人から、転職を勧められるたびに、あの時自分は何を夢見ていたのか、年内にnoteに綴っておきたくなりました。

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