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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 最終章②-終章

4.2019年10月
 10月最初の日曜日、ルカは駅前の真新しいビルのワンフロアを借り切った明るく清潔感の溢れるオフィスに来ていた。案内されたのは間仕切りだけのブースではなく、きちんとした小部屋で、机の上にはモニター画面と2つのキーボードが並んでいた。説明者と客が同時にキーボードで操作できるようだ。
 案内してくれた女性は、ほどなく飲み物を運んできてくれ、説明者用のキーボードを操作しながら
 「こちらのDVDをまず観ていただきます。会社概要、業務内容・実績などの説明となりますので、お時間を10分少々いただきます。DVD終了後に本日の説明担当者が参りますので、そのままお待ちください。」
 と話してくれた。
 ネットで「興味あり・来店希望」と入力したのは土曜深夜26時ごろのこと。8時間後の日曜10時には直接電話があり、13時にはオフィスで話を聞くことになった。仕事が早いのは好印象だ。
 DVDが終了して待っていると、ルカよりも一回りほど年上、ワインレッドのスーツ姿の女性が小部屋に入ってきた。名刺には「リーダー」とある。自分よりも若い人だと話しにくいかも、と心配していたルカにはありがたかった。
 「朝の電話をいただいた方ではないんですよね?」
 「はい。ネットアンケートの内容、お電話でお聞きした内容、踏まえさせていただき、本日のご説明は私の方で担当させていただくこととなりました。」
 「よろしくお願いします。」
 「詳しい説明は、この後、実際にマッチングシステムを体験いただきながら、と考えておりますが、現段階でご質問などございますか?」
 「登録される個人データの信頼性が気になります。うその情報を入れたりする人いないのかな、って。」
 「そもそもご入会いただけるのが厳重な審査を通過した方のみとなっており、こちらから入会をお断りさせていただくことも正直、ございます。個人情報の登録にあたっては、学歴や職歴、資格や年収などはほぼ詐称することは不可能あると言ってよい、と自負しております。実際にご入会手続きに進まれた場合は、その際にご実感いただけるはずです。」
 「といっても、性格や内面的なことまでわかるんでしょうか?」
 「専門のアドバイザーがついて、そうした部分は見させていただいております。あとは、お相手の方とメールや電話のやりとり、ご希望の場合は実際にお会いいただくことで、お互いが直接ご確認いただけるところだと考えています。」
 流暢に回答をもらえるということは、よくあるQ&Aなのであろう。その分の対策はしているとも言える。
 「あと、段取りを無視して申し訳ないのですが、料金を大まかに知りたいです。」
 「承知いたしました。詳しい説明は後でさせていただきます。プランの内容にもよりますが、入会時に必要な金額はざっと30万ほどとお考えください。入会後は毎月、登録継続料が数万程度かかります。」
 「わかりました。じゃあ、入会しますので手続きに進みます。」
 「えっ?入会手続きですか?」
 相手が初めて狼狽するような表情を見せた。
 「はい。ダメですか?」
 「い、いえ、そういう方は初めてなものでして…」
 「マッチングなんとかの体験も、もう結構です。」
 「あ、あの、電話でお聞きした福永様の最優先条件をもう一度、教えていただけますか?」
 「はい。契約結婚を望む人、です。」
 ルカは結婚相談所に来ていた。
 昨夜は、よく名前を耳にする大手業者のHPから、アンケート回答している。
 「いつ結婚したい?」-すぐ
 「結婚するために恋愛は?」-必要ない
 「あなたの休日は?」-自分一人で過ごしたい
 「婚活したことは?」-ない
 ほかに「あなたの身長・学歴・職業・年収・結婚歴」「相手の希望年齢・身長・学歴・年収・結婚歴」などを入れた。朝の電話では確かに「結婚するために、一番こだわりたい条件は?」と聞かれたことを覚えている。
 「しょ、少々、お待ちください。」
 この後、何とか入会手続きに進ませてもらうことができたが、担当者に席を外されることが何度もあった。上司と相談しているのであろうか。
 -リーダーって書いてあったのに…。ここも女性リーダーがいっぱいいる会社?
 俊介が言っていたことが思い出された。オフィス内、見える範囲には女性しかいなかったようだが、奥の会議室にはおじいちゃんたちがふんぞり返っているのかもしれない、そう想像すると笑えた。
 入会の手続きをしながら、いろいろ確認していった。もの凄い量の提出書類だったため、
 「残りはお家で書いていただいて、提出は後日で…」
 と何度も言ってくれたが、それは断って、取り寄せる必要がある書類以外、書けるものはすべてこの場で書いた。印鑑は持参していた。
 数時間作業となり、その間、担当者について出てきた数人の社員全員が、ルカにかなり引いているのを感じたが、こればかりは仕方がない、とルカは開き直ることにした。
 「すみません。面倒くさい客ですよね。私も普段は営業しているのでわかっているんです。でも、ちょっと時間がなくって。本当にすみません。」
 料金プランについては、金額によってコンタクトを取れる制限人数が違うため、一番高い、会える人数の一番多いプランにした。
 その代わり、来月分を払う気はない。今月中に決めるつもりだった。

 最初にコンピューターが自分の出した条件に合いそうな相手を選び出してくれる。但し、この段階ではあまり細かい条件は入れられない。この段階でルカには該当候補者が千の単位ではじき出された。
 次に、自分で要件を絞り込んでゆく。やっと該当者が100人ほどになってくれたので、ここから相手のページを見ていくことにした。顔写真だけでなく、趣味や性格などの自己申告する内容も載っている。外見はどうでもよかったので写真はほとんど見なかった。但し、ここにも詳しいことはまだ書かれておらず、それ以上は相談所経由で先方に合意を取ってから、となる。ルカが申請した「詳細プロフィール閲覧希望」はすべて「許可」で返ってきた。そこから更に絞り込んで、何とか18人にすることができた。
 この18人にはすべてメールを送った。勿論、相談所経由のメールであり、相談所のアドバイザーも閲覧可能だ。個人アドレスなどのやりとりは許されていない。アドバイザーからは後から注意されたが、ルカはこのメールに
 「私が希望するのは契約結婚です。」
 と書いている。驚くことに、18人全員から「それでもよい」という返信が送られてきた。
 -契約結婚でいい、という男の人、そんなにいるの?
 最高値の料金プランでも1か月に直接会ってよい人数は10人までと決められている。先方から断ってくる様子がまるでないため、数回のメールやり取りだけで、ルカは18人を10人までに絞った。
 土日も仕事が入ることが多いルカは、空き時間を利用して1人1時間ずつ、1週間で10人全員と会った。全員に同じ契約条件を提案、プレゼンしている。
 条件
・私をそちらの戸籍に入れてくれること
・ペアローンで都内にマンションを購入すること(私の負担30~40%が理想です。)
 戸建てはNG
・どちらが死亡した場合、財産相続は要相談(私はマンション以外の財産は望みません。)
・どちらかが要介護者になった場合、施設に入れることを前提とする(応相談)
・生命保険については自己責任で。保険金の受取人は配偶者でなくてよい。
・互いの専用ルームを持ち、専用ルームには鍵をつけること。基本はシェアハウスで。
・私は料理はできません。掃除洗濯はすべてやります。
・光熱費の分担は要相談。
・子どもは無理です。そういう行為もできません。
・上記が守られなかった場合のペナルティについては応相談。
・上記を承認いただけるならば、上記以外のことは基本的に善処します。

 契約婚については急に思いついたわけではなく、3年前、都内への異動時に住宅ローンを断られた頃から考えていたことだ。契約条件についても、自分なりに調べながら、ある程度までは作り上げてもいた。俊介と会うようになって中断していたその作業を再開させただけの話だ。
 ペアローンとは、共働きの夫婦がローン上限額を上げるために組むことが多く、双方が互いの保証人となり、負担割合を夫婦で決めることができる。どちらかが死亡や要介護となる場合、該当者の残金支払いは免除となる。残った方のローンはそのまま継続、ということでもある。また、夫婦のどちらかが死亡した場合の財産は普通、配偶者がこれを相続することになるが、それは遺言状などの手続きを踏めば変更は可能だ。ちなみに、ルカが戸建てNGとしている理由は、庭の手入れなど虫が出ると無理だからである。
 10人と会ってみて、男性社会と言われていても、男性は男性でいろいろ大変だということがわかった。「ある程度の年齢を越えての未婚者は、周りから社会不適格者のように見られる」と言った人もいた。未婚の理由で数人が上げたのは「女性を愛せない」というもので、「形だけでも結婚したい」、「親を安心させたい」という声もあった。
 誰にも相談できない状況で、10人の中からルカが選んだのは、18人に絞った際の通し番号14番だった。14番が
 「潔癖症で、そのため女性に触れられない。」
 「出世のためには結婚が必要。」
 と言ったのが決め手となった。水戸(みと)という姓だった。
 数日後、送られてきた婚姻届けにサインをして、ルカは戸籍上、水戸瑠伽になった。

5.2019年12月
 12月21日土曜日、ルカは新幹線で大阪に向かった。この日にしかお互いの都合がつかなくてよかった、とルカは思っている。明日には東京に戻らないといけないので、24日のクリスマスイブは一人で過ごす。今日が24日だったら、とても話はできそうにない。
 俊介とは9月に会ったのを最後に、あれからずっと会えていない。9月末に引っ越しの荷物出しまで終わらせたこともあって、俊介は10月に東京へ帰ってこなかった。新大阪駅に近い2Kを借りたことは聞いている。頻繁にメールでやりとりはしていたし、週末の夜には電話もしていたが、どっちも途中でルカが寝落ちして終了となるのが常だった。それくらい、ルカは毎日くたくたになっていた。

 新大阪駅に着くと、改札口の向こうに俊介が立って待ってくれているのが見えた。3ヶ月も経っていないのに懐かしくて、それだけで涙が出た。
 東口の階段を下りたところに自転車が止めてあった。駅近く、歩いていける範囲にスーパーがなく、こっちに来てすぐに買ったそうだ。ルカのカバンをカゴに入れて、二人乗りをした。ルカは久しぶりに俊介に抱き着いた。やっぱり涙が出た。
 自転車で5分くらい行ったところに俊介の住むマンションがあった。新築の最上階、それでも東京時代のワンルームより家賃は2万ほど安いという。部屋に入って、思いっきり抱き着いた。ここでは嬉しさが勝ったので、泣かずにすんだ。
 事前に俊介からは、大阪で食べに行きたいお店があるか聞いてくれていたが、ルカは、俊介の手料理を食べたいと返している。二人でスーパーに行って、二人で買い出しをするのも懐かしくて、ルカは何度か涙をこらえている。
 食事を作る間、ルカはずっと俊介の横を離れずにいた。いつものようにお手伝いができないのは不甲斐なかったけど、一秒でも長く近くにいたかった。早めの夕飯を済ませると、ルカがお茶を入れた。これだけは自分でやりたくて、持ってきていた。
 そして、ルカは話し始めた。
 「私、頭はよくないけど、俊くんとこれからもずっと会える方法を必死に考えたの。うまく話せないかもしれないし、信じたくない話かもしれないけど、聞いてね。」
 俊介に話していなかった中学以前ことを話した。そこにはあの年の話も含まれていた。

 小6の夏に春香がいなくなった後、雄二は時々、平屋にやってくるようになった。いつも必ず酔った状態だった。
 「ママはどこだ?ママを出せ!」
 大抵は怒鳴りながら入ってくる。ルカが何も応えられないでいると、顔を鷲掴みにしたり、タバコを押し付けようとするので、
 「まだ帰ってきてません。」
 笑顔で応えるようにしていた。
 血走った眼を近づけられるのも、酒臭さの混じったタバコの煙を吹きかけられるのも怖かった。母親がいなくなって、雄二は平屋のどこででもタバコを吸うようになっている。
 ときおり、いくらかの弁当や総菜、菓子を持って入ってくることもあった。
 「俺はお前の父親だからな。俺が面倒、見てやる。」
 そういう時は、気持ち悪いくらい優しい声で話しかけてくる。
 「だからお前も、俺の言うことをちゃんと聞けよ。」
 「うわー、おいしそう。ありがとう。」
 やはり、ルカは笑顔で応えていた。
 その年の12月24日、小学校が冬休みに入って給食が食べられなくなり、家のカップ麺もスナック菓子も底をつきそうで、最近はキャットフードにも手を出している。いつの間にか、ルカは雄二が食べるものを持ち帰るのを楽しみに待つようになっていた。クリスマスを家で祝ったことなどないのに、ケーキを買ってくるかも、とまで期待してしまい、結局、そのまま寝てしまった。
 気がつくと、明かりを点けたままにしていたはずの部屋が真っ暗だった。後ろから羽交い絞めにされている。耳元で荒い息遣いが聞こえた。酒臭い。何かぶつぶつ言っていた。
 「お前のせいだ。お前が悪い。」
 「俺はお前の父親だからな。お前が可愛くて仕方ないんだ。」
 怖くて声も出せなかった。いつの間にか服がはだけ、後ろから胸を揉まれていた。
 「誰にも言うなよ。言ったらどうなるかわかってるな。」
 「ママの代わりをお前がやるんだ。」
 お尻に何か固いものが押し付けられている。
 ここでルカは体の感覚を失った。意識は上空へ抜け出し、自分を遥か上から見下ろしているような感じになり、これは夢なんだと思った。
 翌朝になっても、自分に何が起きたのかよくわからなった。いつものように一人ぼっちで目を覚ますと、下半身に何も身に着けていないことに気づいた。
 起き上がるとテーブルの上に箱が置いてある。中には崩れたケーキが入っていた。
 -夢じゃない
 その場に吐いた。夕べもほとんど何も食べていなかったため、胃液だけをひたすら吐いた。

 「私ね、家からも父親からも逃げられないの。逃げてきたつもりだったけど、ずっと勘違いしてたみたい。これはもう呪いだね。私、前世でよっぽど悪いこと、したのかな。」
 ルカは淡々と昔のことを話した。途中から横で俊介がずっと泣いている。
 「泣かないで。」
 ルカは俊介の頭を撫でた。いつも俊介がそうしてくれるように。
 「だからね、私は呪われているの。この呪いに、俊くんや俊くんのママやパパを巻き込むわけにはいかないの。ずっと考えてたんだよ、俊くんを巻き込まずに、でも、俊くんとずっと一緒にいられる方法…。だから俊くんとは結婚しない。」
 俊介が少しだけ顔を上げようとしている。
 「結婚しようって言ってくれて嬉しかった。指輪も嬉しかった。この指輪は一生外さない。」
 ルカは自分の左手を俊介に見せた。その手を俊介が握る。
 「でも、呪いには負けない。私、生きるって決めたの。ううん、生きるって決めたのはだいぶ前だけど、ただ生きるだけじゃなくって、自分のやりたいように生きる。それは俊くんとこれからもずっと会うってこと。」
 俊介が顔をルカの方に見せてくれた。
 「もし、俊くんに好きな人ができて、私とはもう会えないって思ったらそう言って。その時が来たら、私、それでいいから。でも、それまでは私と今までと同じように会ってほしい。そのための道を選んだの。」
 ルカはこの10月からのことを全部、自分の気持ちを全部、話した。既に入籍したこと、マンションも購入して、来週末にはそこに引っ越すということも。
 「私なんかのために泣いてくれて、ありがとね。」
 全部話してルカはこらえきれなくなり、泣いてしまった。俊介はずっと泣き続けている。本当は今日、俊介に抱いてもらう覚悟をしてここにやって来たのに、言い出すこともできず、二人で一晩中泣き続けた。


6.2020年
 年末、27日まで仕事をしたルカは、28日に購入したマンションに引っ越し、片付けもままならないのに、その日の夜から、水戸家の千葉県の実家に呼び出されている。盆正月は親戚中が集まるのが習わしで、それに従うというのが、向こうが出してきた契約内容の一つだった。
 当人ら以外は契約婚のことを知らないので、「式はしないのか」「子供はすぐにでも生んだ方がいい」「二人の成り初めを話せ」などと何人にも絡まれ、ルカは随分と往生した。解放されたのは年の明けた5日の日曜日で、片付いていないマンションに帰ってきたのはその日の夕方だった。明日には仕事が始まる。
 転送願を出してきたこともあり、郵便ポストには早くも年賀状をはじめとした郵便物が大量に溜まっていた。その中に差出人の書いていない手紙が混じっていた。宛名の字を見て、ルカはすぐに分かった。年末から連絡がつかなくなっている俊介だった。俊介に手紙をもらったのは初めてのことだ。
 早々にルカは部屋に鍵をかけて、手紙を開いた。

ルカさん
この間はいろいろ話してくれてありがとう。話すのもつらかったね。
あれからの数日間、ずっと眠れません。月曜から仕事をしている間だけは冷静になれましたが、夜になると、この夜が明けずにずっと続くのではないかという感覚に襲われ、朝が来たことに救われるような毎日が続いています。苦しいです。あなたが10月から、以前にもまして仕事に没頭していたのは、これと同じような状態だったからでしょうか?数日だけでこんなに苦しいなら、これまで、あなたはいったいどんなに苦しい思いをしてきたのでしょう。ぜんぜんわかってなかったです。ごめんなさい。
ずっと後悔しています。なんでもっと早くに、積極的に話を聞こうとしなかったんだろう、と。ずっと怒っています。なんで何もしてあげられないのだろう、と。ずっと泣いています。なんであなたはあなた自身が泣くような選択をしたんだろう、と。
あなたを縛り付けているもの、家、家族、これはあなたが言う通り、呪いだと思います。泣くような選択をするしかなかったほどの呪いです。それなのに、私に微笑みかけてくれるあなたが、たまらく愛しく、そして哀しい。
あなたの食生活や体質が、普通の人と違う理由がやっとわかった気がします。就職することで、やっと家から逃げ出せたあなたは、昔のことを「へいき」と言いましたが、その間、耐えに耐えた精神は体に異常をきたすことでSOSを発していたのだと思います。その後、自分の力で10年ほどかけて、精神も体もやっと普通のものになりつつあったのだとも感じています。
これからも、あなたは「へいき」と言うのでしょうけど、またしても、耐える生活に飛び込むのはなぜなのでしょうか。しかも、この先ずっと…。
今後は会えるとしても、大阪で会うくらいで、私が東京に行っても、あなたの家では会えないということですね。あなたが入れてくれるお茶が、いや、お茶を入れてくれるあなたが大好きでした。
相手の方がどんな方なのかは知りません。知りたくもありません。いい方であれと祈るだけです。その点についても、やはり「へいき」と言われるのでしょうが、一つ屋根の下で、あまり知らない男性とこれからずっと暮らすのですよね。極端に聞こえるかもしれませんがDV、物理的なものではなくても、精神的なものも含めて、心配です。あなたは怖くなると固まってしまいますよね。抵抗できなくなりますよね。何らかの不具合が生じた際に、やはりあなたは耐えることを選んでしまうと思っています。あなたに何かあっているかと思うだけで、私の心が壊れてしまいそうです。
「耐える」、これはあなたの意志ではなく、あなたの体に染みついたものです。はたして、呪いです。
いくらあなたが「へいき」と言っても、心が、体がとても耐えられなくなることが心配です。しかも、優柔不断なくせに変に強情なあなたは、既にこの先の一生ずっと「耐える」ことを決めています。もう耐えることから逃げてほしい。
なんであなたがこんな理不尽な目に合わないといけないのでしょうか。そこから逃げるため、というのはわかります。でも、逃げられていません。結局、あり得ないような道を選んでいます。何もできない自分に腹が立って、心が擦り切れそうです。この苦しみも、あなたの呪いも、断ち切る術を私は持ち得ません。無力な自分が嫌になりました。持っていけるといいなぁ。
どうか、どうか、幸せになってください。 俊介

 ルカが泣き崩れているところに、鍵をかけたはずのドアが開いた。
 「あのさ、僕は女性には触れたくないと思っていたんだけど、どうも君には触れられそうな気がしてるんだ。これからの時間も長いわけだし、お互い、いろいろ仲良くしようよ。」
 酒の臭いがした。

 月曜日、仕事が始まった。
 普段通りに朝礼から始まる。まるで休みなどなかったかのように皆、淡々と報告をこなしていく。朝礼後はリーダー会議だ。会議直前に人事からの一斉メールが届いた。反射的にメールを開く。

「死亡急報を送付いたします。内容確認をお願いいたします。対象社員名:関俊介さん(大阪支局)、故人続柄:本人」

 定刻通りに司会担当者が会議を開始した。
 「皆さん、おはようございます。新年最初のリーダー会議を始めます。早速に、昨年の報告からになりますね。福永さんからお願いします。今年もニコニコですね。」
 ルカは笑っていた。


終章
 GWの上野動物園、ついこの間まで満開に咲き誇っていた桜の花が、もう探さないと見つけられないほどしか残っていない。代わりに青葉がまぶしいほどに勢いを増している。
 「卵焼きって実はそんなに難しくないんだよ。」
 俊介が手で卵焼きをつまみながらこっちに向いた。
 「ごめん、ナゲットは冷凍もんだから。」
 お箸も持ってきているとのことだったが、全部手でつまめるものだというので、二人とも手でぱくついている。
 「おにぎり、海苔巻いてるやつが梅干しで、巻いてないのはツナ。海苔はパリパリが好きなら別に持ってきてるから、巻いて食べて。」
 「きれいな三角おにぎり!自分でにぎったんですか?」
 「にぎる以外におにぎりをどうやって作るのか教えてほしいわ。『美味しくなーれ、もえもえ、きゅん』ってにぎってるから、美味いと思うよ。」
 「なにそれ?」
 「メイド喫茶、知らんか?」
 「知らない。」
 「知らんことがいっぱいやん。」
 「ごめんなさい。」
 「謝るとこでない。なんでも新鮮でいいな、って言っている。」
 「新鮮?」
 「そう。前途洋々とも言う。」
 「前途洋々かぁ。いいですね。」
 「いいでしょ。」
 「ありがとう。」

  完

参照
社会的養護:春見静子、谷口純世、加藤洋子、光生館 2011年9月20日初版
ネグレクト:杉山春、小学館 2004年11月20日初版
虐待死 なぜ起きるのか、どう防ぐか:川二三彦、岩波書店 2019年7月19日初版
鬼畜の家 わが子を殺す親たち:石井光太、新潮社 2016年8月20日初版
性なる家族:信田さよ子、春秋社 2019年5月30日初版
ジソウのお仕事:青山さくら、川松亮、フェミックス 2020年1月10日初版


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