「壁のバカ」〜「バカの壁」批判〜

自分が養老孟司氏の文章と出会ったのは、確か中学1年生かそこらであったと思う。

国語の教材に香山リカ氏の評論文や志賀直哉氏の『小僧の神様』、そして養老孟司氏の『バカの壁』が取り上げられていた。筆者の言いたいことを30字〜とか、この時の少年の気持ちを50字〜といった、定型問題文に辟易しながら解いていた記憶がある。

その当時からどうしても、『バカの壁』の文章が気に食わなかった。中学生の自分にはそれを言語化するスキルもなく、「大きくなったら好きになるかも」という気持ちで、我慢して読んでいた。

それからはや10年近く。養老氏がお昼の帯番組にコメンテーター枠で出演されているのを目撃した。ふと中学時代の事を思い出し、『バカの壁』をKindleにて購入しパラパラと読んでみた。すると中学時代の、あの、えも言われぬ嫌な気持ちが蘇ってきた。

当時の自分の不快感を言語化するのに足るレベルには文章が書けるようになったため、つらつらと書いていこうと思う。養老センセ、すみません。

1.対話の欠如〜お前が壁を作ってどうする〜

養老氏が本文にて一貫して主張していることは、現代あるいは現代人に対する批判である。『バカの壁』という題名からして「バカ」について語るのかと思いきや、養老氏のいう「バカ」を引き合いにして「現代人」に対する批評を与える場合が圧倒的に多い。

しかし、この批評が今ひとつである。なぜなら、養老氏は「バカ」の思考回路を読み解く時に多くの場合相手との対話を放棄しているからだ。

例えば、

「このように安易に『わかっている』と思える学生は、また安易に『先生、説明して下さい』と言いに来ます。(中略) そんな学生に対して、私は、『簡単に説明しろって言うけれども、じゃあ、お前、例えば陣痛の痛みを口で説明することが出来るのか』と言ってみたりもします。」

などと、学生との対話を拒否した発言をとっているように見える。

正直、このような状況で

「少なくとも医学書だの保険の教科書だの活字のみで分かったような気になる」

などと言われる医学生が不憫である。

また、

「一番印象に残っている酷い例は、東京大学での口述試験での体験。(中略) 答えは『先生、こっちのほうが大きいです。』『おまえ、幼稚園の入園試験でリンゴの大きさを比べているんじゃないぞ』と思わず言ってしまったのですが、そういう学生が実際にいる。愕然、呆然でした。(中略) 実物から物を考える習慣がゼロだということがよくわかった。」

などと、学生をボロッカスにこき下ろしているが、「実物から物を考える習慣がゼロ」という論理構造をこの対話のみから導き出すのは非常に厳しいと思われる。

以上を見ても、養老氏の考える他者の思考回路は、他者との対話で得た結論ではなく、彼個人のステレオタイプから編み出された「偶像バカ」とでもいうべきものである。

養老氏は自分の思い通りのバカを生み出して論理的に糾弾したいという風に捉えられてもおかしくはない、非常に恣意的な他者の評論をしており、そこに対話は皆無である。

一番他者との壁を作り上げているのは、他ならぬ養老氏ではないだろうか。

2.過去を美化しすぎ〜ムラに帰れ〜

養老氏の現代人批判において無条件に過去の事例を引っ張り上げてくる場合がある。

「世界とはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。」

そんな訳ないでしょ。昔も今も、デイドリームビリーバーはいます。みんながみんな虚無主義だったら村人全員馬に抱きついてます。宗教的正義をただ一つの拠り所として生きてる人もいるし、お金稼ぎが生きがいの人もいる。そんな簡単に「昔の人」でくくることはできないはず。

また、

「脳化社会にいる我々と違って、昔の人はそういうバカな思い込みをしていなかった。」
「知るということは、自分がガラっと変わることです。(中略) 昔の人は、学ぶ、学問するとは、実はそういうことだと思っていた。」

などと、「昔の人」というクソデカ主語で過去を美化するパターンが見受けられる。

いったい、どのくらい昔のどの地域の人なのか?

我々読者には皆目分からない状態で語るほどには、養老センセの脳内には「昔の人」が焼き付いているらしい。

個人的には、養老先生には江戸時代の村社会における狭隘な価値観をぜひ堪能してほしいと思う。

3.見え隠れする差別思想〜20世紀に帰れ〜

過去の美化の延長線上であるのかは分からないが、近頃教育でよく言われる「個性」というワードにもかなり批判的である。

「大体、現代社会において本当に存分に『個性』を発揮している人が出てきたら、そんな人は精神病院に入れられてしまうこと必至。(中略)精神病院に行けばまったくもって個性的な面々揃いです。私の知っている患者には、白い壁に、毎日、大便で名前を書く人もいた。それを芸術的な創造行為とすれば、凄いかもわからない。おそらく現代芸術の世界でもまだ誰も挑戦していないジャンルであるに違いない。が、現実問題として迷惑でたまらない。」

はい、養老センセが例に挙げた人は、「病気社会性を失ってしまっている患者さん」です。間違いなく個性を発揮したくてやってる訳じゃないでしょう。こんな文章、精神病の患者さんにも、個性を発揮したいと思ってる人にも、現代芸術にも失礼である。

後者二つに対する失敬はともかくとして、かりにも医学博士たる養老先生がこんなふうに病気の方を揶揄するのは、養老先生の「個性」なんですかね。

また、女性、ことに主婦については、

「家庭の主婦についても、家事労働がかつてよりもはるかに楽になってしまった。(中略) それでも、どういうわけか、『家事は無限にある』『男にはわからないけど家事は大変なのよ』と奥さん方は言います。(中略) そこまで女性を暇にして、女性に対して次に何を与えるか。」
「すると、家事労働を随分楽にすることによって、女性はただ単純に楽になってしまっただけという結論が出てくる。」

もう多くは言いません。

家事の一つでもやれば、その価値観にはならないと思いますが。

ただ、この節の見出し、オバサンは元気 である。
自分がオジサンじゃないつもりなんだろうか、この人は。

4.論理ガバガバ〜方程式勉強してくれ〜

『バカの壁』の中で個人的に一番酷いと思うのがこの文章である。

「(中略) y=axという一次方程式のモデルが考えられます。なんらかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです。このaという係数は何かというと、これはいわば『現実の重み』とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。」

一次方程式じゃないじゃん

aも変数なんでしょ、じゃあ二変数の関数だよね。しかもxの値によってaも変わる可能性があるんだったらこんな単純なモデルで説明不可能では。東大名誉教授である養老先生にこれがわからないはずがない。まさか、話の説得力のために嘘を?

ちなみにこのガバガバ理論、第二章 脳の中の係数で丸々使い続けるのである。いやはや、勘弁してくれ…。

5.総論

養老先生の『バカの壁』について、理論的な面から自分の批判を加えるつもりだったが、単純に文章としての突っ込みどころが多すぎて最後の方はかなり省きながら書いてしまった。

養老先生の文章から垣間見える、他者との対話の欠如や旧世紀的差別思想、あるいは文章を読みやすくするための欺瞞。

これはこれで養老先生の「個性」として尊重したいと自分は思うが、失敬ながら最後に『バカの壁』より引用して少し言わせていただきたい。

「一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」

※本文中引用でも、読みやすくするために太字で表記した場所があります。『バカの壁』本文中に太字ではありません。



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