ケンカ

出来る側、あるいは知識がある側であるが故の邪の心。

30代になってもいまだに知識欲があり、いろいろ教えてもらう側であるケースが多々あります。そういう時は、講師の先生などの教えてくださる方がいたり、アドバイスをくださる方がいたり、当たり前ですがその事柄に関しての知識をお持ちの方が教えてくださいますよね。

私が何度か経験した教わる側であった際、

「わかんないから勉強しに来てるのに、そういう言い方しなくても・・・」

「いきなり専門用語をそんなに並べられても、理解するのに時間かかりそう・・・」

など、

教わる側に寄り添ったり、レベルを合わせて教えてくれないんだなって感じる方に不満を持つことが何度かありました。

もちろん、そういう方ばかりではありません。

近々だと、「自分史活用アドバイザー認定講座」というものを受講してきました。その講座は、受講者の方々もすでにご自身でセミナーなどをやっていらっしゃる方や、年齢の幅も30代から60代くらいまで様々なタイプの受講者がいる中で私はどちらかというと若輩者の受講者でしたが、そんな私にもレベル合わせて下さった講義内容だったと思います。その講座は一日がかりのもので講座の項目ごとに講師の方が変わるのですが、どの講師の方にも言えることであったと思います。すごく充実感がありましたし、時間が過ぎるのがあっという間でした。

また、教わる側とは逆で、自分が他人に何かを教えたり、何かのやり方などを聞かれて答えてあげるなどの機会ももちろんあり、自分が教える側、アドバイスをする側、あるいは何かが出来る側の立場になることもあります。

そういう時に、その時の自分の態度や言い方をよく反省します。冒頭に自分が「こういう態度や言い方に不満を持つ」と書かせていただいたクセに、です。いざ自分が教える側に立つ際、無意識に専門用語を多用していたり、なかなか理解してくれない人に対してイラっとした気持ちを持ってしまうことがあります。要は、教わる側の方の理解力を考慮したアドバイスができていないことがあると、自分でわかるんですよね。

あ、いま私、イラっとした気持ちが顔にでたかも。とか。

相手の表情をみて、アタマの上に「?」が見えた時、

あ、いま私、専門用語を羅列しちゃったかも。とか。

特に最近、スマホの使い方や、パソコンあるいはインターネットのネットワークの類などに関する頼まれごとを、自分の親を始め、親の友人たちの要望でお手伝いをさせていただく機会がとても増えました。

60代〜70代くらいの自分の親世代だと、スマホの操作やそれで出来ること、パソコンの操作に関してはもう、今から覚えるなんて大変すぎる!なんなら得意な子にお願いしたい!といった心情もあるようです・・・。

そういった周りのいくつかの需要に、元々デバイスの操作系が得意だった私が対応できた、といった流れです。(今の時代の若年層の人は大体得意の方が多いですよね)

そのようにデバイス系のお手伝いをしている際によく思うことがあります。スマホのプランやネット回線の契約プランなど、合わせて毎月いくらかかっているのかを話の中で聞いたりすると、「なんでこんなに料金かかってるんだろう」といった疑問です。もっと安く済む方法はいくつかあるのになぁ、と。

私の妹にも、月々のスマホ料金プランをもっと安く出来る方法などを教えようと試みたことがあったのですが、まだ30代である妹でさえ、

「難しいことわかんないからいーや!いいの、高くても!」

って言うんです。・・・信じられません。夫婦で見直せば年間で数万円とか変わるレベルなのに・・・と。私は理解しているから、すなわち「知識がある側」であるために、激押しするのですが、当の本人は、理解すること自体が面倒になっているのです。私の母と一緒で、スマホアレルギー(肌荒れの類のアレルギーではなく、拒否反応的な意味で使用しています)であるため、説明を聞くところからしてハードルが高くなりすぎているためだと思われます。

話を戻して、シニアの方がより搾取されてしまう!という思いから、こういった方法があるんだ的なことを親やその親しい友人などに情報提供しているつもりなのですが、やはりどうも専門用語がたくさん口をついてしまうのです。それに、相手の理解が追いついてくるのになかなか時間かかるんですよね。しかし、私の考えの押しつけになってしまっていたら意味がないな、とも思います。

相手から苦手意識をいかに無くしてから、わかりやすい説明のしかたで・・・って、言葉にするのは簡単だけど本当に難しいことです。

でも、例えば今回のエピソードは「スマホを始めとしたデジタル」に関することですが、本当はもっと知りたいし勉強したい、使いこなせれば便利なんだろうけど、って言うシニアの方は多いと思います。出来る人ってのは結構冷たいところもあって「ネットでググれば今は答えがあふれている」、「本だってたくさん出ている」「本当に出来るようになりたい人は自分で努力して勉強するはず」とかそういう

やれば出来る論

を振りかざす人が多い気がするんです。

確かにいます、努力と根性でスマホを使いこなしてたり、パソコンを使いこなしてたりする人。しかも、らくらくフォンとかじゃないやつ。

でも私の経験上で見てきた周りの状況からの考察ですが、そういう方々って、若い頃からシステム系が身近にありながらお仕事してきた方や、探究心や好奇心旺盛な方、感覚でぽちぽちタップしながらどんどん進めていけちゃう方、要は今までのその人の環境と思考から考えて、一言で言えば「向いてる人」あるいは「適した人」。そんな気がします。

母を一例にあげると、スマホで見たことない画面が表示されると、変なところタッチしたら怖いから、と意味不明と思われる画面が表示された際は極力タッチせずに消す。その消す動作でさえ、場合によっては怖いと感じて出来ない時もあります。そんな母も、Google検索とかできたら便利なんだろうけどなぁ、と時々会話の中で漏らしています。でも、できたらいいな、という小さな願望はあるけど、必須ではないんですよね。

シニアの方だけではありませんがなんだか、

「聞きたいけど聞けない」

ということが普通になってしまうようなことにはしたくないなって思います。これって、日本人特有の性質とも言えてしまうのでしょうか。なので、気をつけるべきは何か知識や手段を授ける側になった時に、相手の理解度レベルに失礼のないようにいかに合わせることが出来るか、なのかなと考えます。

冒頭にも書きましたが、私が教えてもらう側のときに抱いた不満というのは、「私なんか場違いなのかな」、「こんな質問したら笑われるかな」などの劣等感を抱いてしまったことです。私の学びたい気持ちをマイナスへ持っていかれた気がしたから。

何か知識を得たその時のセミナーもしくは勉強会でのことを嫌な経験にしたくないし、そのことが次にまたこんなセミナー行ってみようかなっていう意欲を削いでしまうかもしれない原因にもしたくないです。

セミナーや勉強会等ではなく、ただ単純に誰かに何かのやり方を教わるといったような時も、「話通じてんのかな」とか「噛み合ってないな」とか、そんな感じの態度されると、もうこいつに聞きたくねぇって思います。私ってバカなの?って。

誰でも、自分が出来た時と同じように他人も出来るとは限らないってことなんですよね。私が中学生の時、当時はテストはいつも学年トップ10に入るアタマ(自慢じゃないですよ!)だったのですが、勉強が苦手な友人に「どうしたらテストでいい点取れるのかな」といった会話の中で、「本気で勉強すれば誰でも取れるでしょ」みたいなことを言った記憶があるのです。

・・・サイテーですね、私。

先にも出てきた「やれば出来る論」です。

中学の勉強まではなんとなくの勉強でもそこそこいい点が取れてしまっていた私は、勉強に関してあまり努力ということをしたことがなく(そのため高校入ってからはサッパリで後ろから数えた方が早い順位ばかりでしたが)、勉強出来ない子がなぜ出来ないのかが全く理解出来なかったのです。まさに、自分が出来るんだから他人も同じように出来ると思っていた典型でした。誰でもペースというものがある。何かが出来るようになるのに、早い人もいれば時間がかかる人だっている。テレビで見た極端な話をすれば、辞書の内容を瞬時に暗記してしまう能力を持つ人だっている。恐ろしいスピードで覚えられる人もいるのです。だから当然その逆も然り。

都度、このような反省をしては、常識レベルを無意識に教える側の自分に設定したまま他人に教えてしまう、といったことを日々繰り返しています・・・。重ね重ねですが、なかなか難しいことですよね。教えるって難しい。というか、伝えるって難しい。

立場が変わると途端に対局の(知識弱者側とでも言えるのでしょうか)立場の気持ちを忘れがちになってしまい、そう言った方に対しての配慮が足りなかったなと感じた時の自分についての猛省の記録でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?