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世界ベスト16の偉業 DFM Yutaponが7年の「航海」の先に見据えるもの

「船、ですかね」

選手としてDetonatioN FocusMe(以下、DFM)を支え、同時にDFMに支えられたYutaponは、チームの存在を「船」に例える。

7年もの間、国内外で航海を続けた。初めて海外に出たのは2015年、トルコだった。それからメキシコ、韓国、ベトナム、ドイツと、様々な国を見てきた。

「トルコのご飯はおいしかったですね。イスタンブールで食べたラム肉、あれは人生で一番美味い肉でした。思い出補正がかかっているかもしれないけど」

25歳にして世界各地で見た光景を語る青年。しかし彼は観光客として海を渡ってきたわけではない。マウスを片手に獲物を狙う、凄腕の「漁師」だった。

「自分たちはずっと出来ると知っていました。それをようやく証明できたことが、何より嬉しかったですね」

全世界で1億人にものぼるプレイヤーが熱狂するゲーム『リーグ・オブ・レジェンド(以下、LoL)』。その頂点を決める大会「World Championship(以下、Worlds)」は、世界で最も注目を集めるeスポーツ大会の一つだ。その本戦出場、つまりは世界で16位以上に食い込むことを目指し、日本代表として挑み続けた。

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不可能だと、言われた。無謀に、思われた。

それでもYutaponはDFMの一員としてチームメイトと共に櫂(かい)を漕ぎ、世界の海を渡り、大波に抗い、銛(もり)を投げ続けた。その間、7年。遠征のたびに力及ばず、傷つき帰ってきた。もっとうまくできたなら、あるいは……何度そうやって後悔しただろう。それでも挑戦し続け、2021年の夏、アメリカの強豪Cloud 9に勝利し、ついに彼らは本戦出場の栄光を掴むに至った。

2014年のプロシーン誕生から、2021年日本代表として初のWorldsのベスト16達成。その7年間、DFM所属プロゲーマーとしてLoLという「大海」に挑戦し続けたYutaponは、何を知り、何を学び、何を得たのだろうか。

ゲーム中毒というより、勝負中毒

ゲーマーとして希代の逸材であるYutaponだが、意外なことに最初に遊んだゲームは覚えていない。

「(初代)PlayStationだったかな? うーん、ファイナルファンタジーとか好きだったと思うんですけど」

そう苦笑いするが、中学に上がる頃に触れたPCゲームが人生の機転となった。韓国の無料FPSがネットのあちこちで散見されている時代だ。Yutaponはすぐこれらの作品に飛びついた。誰かと組んで、誰かにぶつかっていく、オンライン対戦ゲームの面白さに夢中になった。

生粋の負けず嫌いだったYutaponにとって、日本中の猛者と好きな時にぶつかれる勝負の世界は、どうしようもなく楽しかった。身体を動かすことも嫌いではなかったが、部活に入ることよりも、すぐ帰宅してバーチャルな戦場へ駆け付けることを選んだ。

そもそもパソコンの出どころは「覚えてないんですよねぇ……。なんか、あった(笑)」と笑いながら答えるYutapon。恐らく家族の持ち物だったのだろう。ゲームにのめり込んでいく姿を見た家族から何か言われそうなものだが、「いやぁ、特に。学校さえ行ってくれたら、って感じでしたよ」と振り返る。

FPSのチームメイトに誘われたのが、当時サービスを開始して間もなかったLoLだった。複雑ながら秀逸なゲームデザイン。課金要素ではなくプレイヤーの実力のみで全てが決まる哲学。

他の事が何も考えられなくなるぐらい、あっという間に虜になった。チャンピオン、アイテム、マスタリー、それぞれの組み合わせを考えるだけで楽しいのに、敵味方の相性も考えなければいけない。さらに2週間ごとにパッチによってゲームバランスが調整され、時に要素が追加されることもある。「アップデートの度に戦略を考え直していると、全く飽きなかった」と振り返る。

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とことんロジックを突き詰められるLoLの奥深さに、若きYutaponの闘争本能は刺激を受けた。学校から帰ってきては、ひたすらプレイする日々。2012年のSeason 3には北米サーバーにて、当時、上位50人のみに与えられるランク「Challenger」にまで昇り詰めていた。まさに「天才」と評するに相応しい鮮烈なデビューだが、Yutaponはそのありふれた称号を好まない。

「Season 3はシャコをずっと使ってました。ただシャコに思い入れがあったわけではなく、当時の環境において強かったんですよ。強いから、使っていた。その頃から、対戦した相手の戦略や強い人の動画を参考にして『今どんな戦術が強いのか』を考え、それを実践しては都度修正することを繰り返してきました。その積み重ねの結果なので、僕はあまり『天才』とは思っていなくて」

計算し、試行し、修正する。その一連の過程を、猛者との闘争の間に繰り返し、己の糧とする。LoLは「完璧にプレイすることが不可能なゲーム」だ。だからこそ、Yutaponが信じるのは勘でもセンスでもなく、プレイするうちに積み重なった理論だという。

Yutaponのゲームに対する姿勢はLoLに限った話ではない。LoLのプロとなった後も、オフシーズンには『オーバーウォッチ』、『Counter Strike: Global Offensive』、『VALORANT』などのFPSを「嗜(たしな)み」、それぞれ日本人として最上位のランクに名を連ねた。FPSのプロチームにとってもYutaponはこの上ない逸材だが、転向する気はないという。

「試したいと思わなかったこともないですけど、LoLが面白いんで。一人でやっていても、チームでやってもLoLが一番面白くて。他タイトルの競技シーンにいくと、(ブランクで)LoLに戻ってこれなくなるでしょうし、LoLを続けます」

学生とプロゲーマーの両立に苦しんだ日々

Season3に獲得したChallengerの称号に加え、徹底してロジカルなプレイスタイル。Yutaponは2014年に初の日本公式リーグ「League of Legends Japan League(以下、LJL)」の開催が決まるやいなや、結成間もないDFMからオファーを受けてリーグに参戦する。しかしプロとして歩み始めてすぐ、学業と並行することの難しさにも直面した。

2015年には初めての国際大会となる「International Wild Card Invitational(IWCI)」に出場すべく、トルコへ渡航。結果は、最下位だった。ちょうど大学に入学したばかりの4月のことだった。

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「新入生同士がクラスで打ち解け合う頃に自分はトルコにいて、帰国した頃にはグループも固まっていました。話しかけても「え?お前誰?」みたいな。結局ゼミで友達を作れたからよかったんですが、大学と並行してプロを続けるのは大変でした」

いかにゲームの才があっても、学生である以上、学業も疎かにはできない。さらに2016年夏、DFMはライバルチームRampageに決勝戦で敗北。2年にわたり、国際戦への挑戦権に手が届かない。当時どのような心境だったのか。

「正直あまり覚えてないです。試合のある週末になると、3~4時間かけて実家から東京まで新幹線で通い、その日のうちにすぐまた新幹線で帰ってしまう日々で。いつもヘトヘトで、帰りの新幹線では爆睡してました。今思うと、よくやってたなと思います。毎日が必死で、大変でしたけど、ずっと支えてくれた親の希望で大学は出たかった。大学を辞める気も、プロを辞める気もなかったです」

学業とプロの両立で多忙な日々を、Yutaponは必死で駆け抜けてきた。転機が訪れたのは2018年、DFMが念願の国内優勝を再び達成した日だ。本人でさえ「今年もダメなんじゃないか」と思っていた中、念願の優勝だった。「そりゃ、嬉しかったですよ」と、彼は笑顔で振り返る。

DFMが久々に王座に返り咲いた日、チームメイトのCerosはインタビュー中に涙を流した。CerosはDFM創設期からYutaponと同じ「船」を分かち合い、海の向こうへ挑戦し続けてきた。「竹馬の友」とファンは呼ぶ。普段クールかつ理知的な話し方を好むが、2018年の優勝時には涙する姿をファンに見せたのは、おそらく初めてだ。

「覚えてますよ。Cerosさんが泣くの、珍しかったから」

Cerosの涙は、勝利の愉悦のみではなかった。

「その……viviDが、最後になるかもしれないから」

当時DFMに所属していた韓国人プレイヤーviviD。彼には徴兵が迫っていた。2016年春からDFMを支え続けてくれた彼に、もう一度トロフィーを渡したい。戦友に対する祈りが形になった勝利でもあったのだろう。YutaponもviviDも、プロでありながら現実とも戦い続けなければいけなかった。

「Cerosさんは……よく話し合っていて、すぐ相談できる仲間……。うーん、言葉にしづらいんですが、どんなことでも言い合える間柄ですね」

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そして2019年、大学を卒業したYutaponは専業プロゲーマーとなることを発表する。就職を機にプロを引退するプレイヤーも少なくない。就職し、兼業プロになる選択肢もありえただろう。

「最初はプロゲーマーと兼業する気でいたんです。平日はサラリーマン、休日はプロとして試合をする、と。就職先も、チームオーナーの梅崎さんから紹介いただきました」

チームからすれば主力のYutaponには専業プロとして所属してもらった方が、戦力に直結するはずだ。だがYutaponのキャリアを案じ、仕事先を紹介してくれたのだろう。

「チームにはずっとお世話になっていて……どうしてここまでしてくれるのかわからないぐらい。学生の頃も、ずっと自分の意志を尊重してもらっていました。だからこそ自分も、仕事とゲームどちらか手を抜くことはできない。内定までもらっていたんですが、梅崎さんが一緒に頭を下げてくれました」

プロゲーマーの世界。過酷な勝負の世界にあって、去年は共に戦った仲間が、来年にはライバルとして立ちはだかることもある。しかし、だからこそ、長年肩を並べると筆舌に尽くしがたい絆で結ばれるのだろう。

「専業でプロをすると家族に報告すると、応援してくれました。明確にプロとしての意識も変わりましたね」

白鯨に挑む

全てをプロゲーマーとして費やせるようになったYutaponは迷いを振り切り、DFMもまた成長していく。2019年のWorldsではEUで3位のSplyceに勝利。日本代表が初めて強豪ひしめくメジャーリージョンのチームに勝利した歴史的瞬間だった。

「自分たちでもちゃんと勝てると証明できたことが嬉しかったですね」

Yutaponは国際戦で敗北する度に「自分たちの実力を出せれば勝てた」とインタビューで答えていた。それは決して虚勢ではなく、Yutaponの理論的な帰結だったのだろう。練習を日々続けてきた積み重ねが、ようやく結果に現れた。「自分たちなら勝てる」という確信が、ようやく現実になった。

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しかしDFMのライバルたちも研鑽を怠っていたわけではない。2021年の夏、DFMは強力なメンバーAriaを迎えながら緒戦は振るわず、傍から見れば一進一退の日々が続く。それでもYutaponの瞳は光を捉えていた。

「正直、別にいいっしょ、俺らなら勝てるよって内心思っていました」

2021年夏は梅崎から叱咤激励もあったが、その時ですらYutaponは「後半で取り戻せる」と自信に満ちていた。メンバーチェンジした直後で練習が十分にできていないだけで、歯車さえあれば勝てる。チームを7年支えた大黒柱の言葉に、迷いは一つもない。

メンバー交代によりCerosが試合に出場しなくなったことに対しても「選手としてプレイしている以上、勝つために最善を尽くすだけ」と、あくまで勝ちに対して貪欲だ。そんなCerosは現在、第三のコーチとしてチームメンバーたちの戦略やメンタルを支える。グループステージにまで到達できたのも、Cerosのケアが大きかった。

かくして2021年、7年間の挑戦の末、DFMは念願のグループステージ出場を決める。この瞬間ばかりはチームメイトもYutaponも飛び上がるほど喜んだ。しかしグループステージにおいて、結果的にWorlds 2021で優勝した中国のEDward Gaming、既に3度王者に輝いた韓国のT1、北米随一の人気を集める100 Thievesと世界屈指の強豪チームに敗北すると、喜んではいられなかった。

「悔しかったですね。これだけ差があるのかと思いもしたし、自分たちもまだ十分戦える余地もあると思いました。自分はずっと勝てるつもりでやっているので」

グループステージ自体、歴戦の猛者たちのみ集まる領域だ。客観的に見ても、DFMの配属されたグループBは過酷極まるものであり、敗退はやむを得ないと考えるファンも少なくない。それでもYutaponは悔しがった。グループステージ出場が今までで最も喜ばしいことなら、EDward GamingやT1などに敗北したことは、今までで最も落ち込んだ瞬間だった。

「これまでずっと階段を登ってきて、ようやくベスト16まで到達したんです。ならベスト 8に続く階段も、登っていけばいいかなって」

彼らは白鯨に挑み、敗北し、それでもなお、勝つための努力を辞めない。DFMを知る者であれば、愚問だとわかっていながら、それでも、問いたださずにはいられないだろう。

どうしてDFMは、Yutaponは、かくも荒々しく、広く、過酷な海へ航海に出られるのか、と。

「面白いからですね」

甲板に立つ青年は、笑って答えた。

(取材・文 Jini)


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