村に移住して1ヶ月。「自然の多い場所で想像力は高まるのか?」を結論づけるため、私は衝動的に電車に飛び乗り、六本木へ向かった。
千葉県流山市から岡山県西粟倉村に移住して約1か月。
私は今、東京にいる。朝起きて急に「私の想像力は高まったのか?」を試してみたくなって、勢いのまま無計画に電車に飛び乗った。
まず、村に移住してからの1か月を振り返りたい
自然しかない場所にいると空白の時間ができ、妄想をせざるを得なくなる。
村にきて、仕事がすごく早く終わるようになった。
仕事量は減らしてない。減ったのはコミュニケーション量だ。誰とも話さないから、思考を中断されない。ゆえに、企画がメインの私はめっちゃ仕事が進む。
これはオフィス以外であれば、わりと同じ効果が期待できる。自然うんぬんはあまり関係ない。
違いはここからだ。
早く終わって、何もすることがないのが田舎暮らしであり、自然の中。
近くを歩いてもお店もないし、観光地もない。話をする相手もいない。
電波も弱かったりするのでスマホを見るのも諦める。
頭を空っぽにしてボーとしながら森をみてると、「こだまがおるんちゃうんかな?」とか頭の中でAR(拡張現実)のように妄想と現実が重なって見えてくる。
近くの川に横たわっている物体はデカい流木かと思ったら、朽ち果てた動物だったときはオッコトヌシ様なのではないかと本気で思った。
そんな現実と妄想の境があやふやな日々を過ごしているとある変化が出てきた。
家のポストが顔に見えてきたのだ。愛おしくなって思わず「眠いん?もう朝やで」と話しかけてみた。その日から毎日話しかけることが日課になった。
生きることにエネルギーと時間を割かなければならない環境
今まで常に追い立てられるように仕事をしていたのは、「していた」のではなく、「できていた」のだと気が付いた。
夜遅くなってもスーパーもコンビニも開いている。帰って1分で食べれるお惣菜はたくさん並んでいるし、サイゼリヤもドンキーも百円ショップもあった。
遅くまで働いても、生活は何とでもなる。
しかし、村ではそれが通用しない。外食ができる場所はほぼなく、隣町のスーパーも早めに閉まる。山の谷間だから夜が早い。
とにかく早く仕事を切り上げて、夕方までに夕食や明日の学校の準備を終わらせなければならない。
今までお惣菜生活だった私はプラスチックゴミが圧倒的に多かった。村ではプラゴミは月に二回しか回収されない。このままではゴミ屋敷になる。
プラスチック容器が出ないように気をつけながら、全てのゴミのリサイクル表示を見るようになった。
私にとって便利な生活とは、生活するのに時間も意識も割かなくても良い環境であり、不便な生活とは、生活することに時間と意識を割かなければならない環境だった。
村に移住して働く時間が短くなった反面、生きることに時間がかかるようになった。新しい価値を出すためではなく、生きるために理性を使うようになった。
刺激がないんじゃない。私が物事をみる見方が少ないからつまらないんだ。
自然の中にいるだけで、新しいアイデアが湧いてくるわけではない。
新しい刺激がほしくて、鳥取のダンス教室のKpop完コピクラスに娘が通い始めたことをキッカケにTWICEを踊り、Tiktokやってみたり、クリーピーナッツのラップをラッパーみたいに歌ってみたりした。
違う。。なんか違う。
今は新しいことにチャレンジしたいんじゃない。
エンターテイメント的な面白さを求めているんじゃない。
石を見て、硬さや大きさや色や形以外の情報を受け取れるようになりたい。森を見て、緑以外の色が見えるようになりたい。
村での生活がつまらなくなるのは、刺激的なものがないからでも、新しいものがないからでもない。自分の物事をみる見方が少ないからだ。
都会にいると刺激的な情報が勝手に入り込んでくるから自分の見方が一つしかなくても問題ないが、自然の中では自分の知識や視点の乏しさが顕在化されてしまう。
私はアートや美術は大の苦手なのだが、なぜか、今私に必要なのはアートと呼ばれるものの中にあるんじゃないかと直感的に思った。
子どもの自分が出てくる頻度が多くなっている気がする
本を読みながら、ふと「最近、子どもの自分で過ごす時間が増えているのではないか?」と感じた。
朝、なんだか駆け出したい気分のままジョギングして、大声で歌って。ヨギボーで休んで、Swichで子どもたちと遊んぶ。
なぜ子どもでいる時間が増えたかというと、周囲に誰もいないからだ。
人の目から解放されると、期待も役割もなかった頃の自分が出てくる。
村(自然の中)で「することがない」「便利ではない」「周囲の目がない」状況になることで、現実と妄想、働く(理性)と生きる(本能)、大人と子どもという境界線が曖昧になり、XYZ軸の空間で飛んだり跳ねたりキャッキャ遊んでいるという感じ。
境目がなくなると、新しい組み合わせは生まれやすいし、アイディアはひらめきやすくなる。
さて、じゃ、ほんまに私の想像力は高まったのか?
朝起きて、急に試してみたくなった。
よし、行こう!想像力を試す旅へ!
娘に「東京行くよ!」と声をかけ、勢いだけで電車に飛び乗る。何時に着くかすら分からない。今、どんな美術館がどんな企画展をしているかも分からない。
21_21DESIGN SIGHTギャラリー
電車の中で夜遅くまでやってる美術館を探した。
「FUTURES In-Sight展」はチラシや説明だけでもうすっごい面白そう。
めっちゃオモロい!どんどん仕事のアイデアが浮かぶ。ペンが止まらない。考えたことのない「問い」と「空間(仕掛け)」に私は興味があるんだな。
しかし、こういうのは村に移住する前から好きだった。自分の中で変化は感じない。
ダミアン・ハーストの桜
新国立美術館は土曜日20時まで開いている。
ダミアン・ハーストが誰かは存じ上げないが、入場してみる。
以上だ。一気に感想が乏しくなる。絵画に出会うと、いつもこうだ。思考も想像もできない。さっきはあんなに妄想が膨らんだし、ワクワクしたのに。
滞在時間5分。彼にも絵にも関心が持てない自分にガッカリした。
メトロポリタン美術館展
結局、私は何も変わってなかった。あの「てんてんの桜」から何も想像できなかった。村に行っても私の想像力は高まっていないのか、と諦めながら最後にメトロポリタン美術館展に入る。
1番苦手なやつ。高尚な絵画のやつ。私にわかるはずがない。楽しめはずがない。
物音ひとつしない紺色の空間に金色の額縁。薄暗い部屋にスポットライト。
四隅に黒いスーツのスタッフ。
いかん、ハードル高い。このままでは息が詰まって3分で出てしまう。
一回、足を止めて今回のテーマを決めてみた。
「タイトルを見ずに、タイトルをつける」
よし、行こう。
羊飼いの礼拝→くるくるてんし
少年とグレイハウンド→変わったズボンですね
ヴィーナスとアドニス→おしり
だんだん大喜利になってくる。楽しいぞ。
Twitterで流行った「名画で学ぶ主婦業」みたいや。
そう思った瞬間、急にガヤガヤし始めた。
絵画の中の人物たちが話し始めたのだ。
超くだらない、日常生活の会話を。
あっちでは自画像が「ひげがええやろ?この角度最高なんよ」とナルシスト的な発言を連発しているかと思うと、こっちでは「ギューさせてよ」とおじさんが天使にお願いしてる。クレオパトラが「熱っ!!」と叫んでいて、穀物畑に「ビュー」と風が通る。
おいおい、なんだこれは!ナイトミュージアムの世界じゃないか!!うるさいくらいの会話量。
そして、最後に。「暗めのクラゲ(ぽにょの妹つき)」と名付けた作品はモネの水連だった。おお。これがモネか。どうりで人が群がってるわけだ。
ああ、楽しかった。名画はずっと生きてたのか。おしゃべりしてたんやな。
「美術館では真面目に賢く、作者や時代背景に想いを馳せながら鑑賞しなければならない、という固定概念から解放された瞬間」はまさしく「現実と妄想、働く(理性)と生きる(本能)、大人と子どもが混在した瞬間」でもあった。
結論、私の想像力は自然の中で高まった
村は素敵な人がたくさんいる。素敵な場所もたくさんある。しかし、私はこの1か月、村で無理にネットワークを作ろうとはしなかった。
しなければいけないこと、も極力作らなかった。
頑張って何かをすることをやめ、ただただ、時間の流れと自分の感情に身を任せていた。
生きること以外、何もしない時間と誰からも見られない場所、期待されない自分。
上記の条件が揃った状態で、自分の知識や思考では到底理解できない自然という「ものすんごい不思議なもの」を前にしたとき、たぶん人は目に見えない何かを感じずにはいられない。
それが想像力だと私は考える。
私は村に移住して1か月でポストとおしゃべりができ、絵画のおしゃべりを聞くことができた。
ゆえに、「自然の多い場所では想像力は高まる(条件付き)」と結論づけたい。
〈エピローグ〉
企画展でみたfutureCompass(問いを作るコンパス)を画用紙でクルクル回るように作ってみた。
「誰が時間を終わらせるの?」「どうやって2121年を感じるの?」とか哲学的すぎて分からないから、えり子オリジナルでもうひと要素加えてみた。
セミがこの問いに答えるとしたら?ナウシカがこの問いに答えるとしたら?お笑い芸人がこの問いに答えるとしたら?星新一がこの問いに答えるとしたら?
ちょっと考えるのが楽しくなってくる。
あと、車の展示で「バックします。バックキャストします」と未来から過去に行くのも面白すぎたから、自分の車でやってみた。
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