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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #11~「ダイバーシティ」「グローバリゼーション」の先駆者(DIVA)イザ・クレマー~

音楽の価値は、時代・場所とどう関係してきたか?

「異文化交流」「文化や価値観の多様性」は、今ではすべての文化活動の基盤である。しかし、そうした考え方が定着したのは、長い文化・音楽の歴史の中では極々最近のことと言ってよい。
元々文化・芸術はそれが生まれた場所や時代によって、それぞれの価値を持ち、そこから外れると評価はおろか、認知さえされない、ということが当たり前だった。

「拡がることでその価値をより普遍的にする」というスキームではなく、「限定的にその価値を徹底的に高め、孤高の芸術にする」というスキームで浸透していった音楽もある。

最も明快な事例として、ヘンデルバッハの比較をすると分かり易い。
この共に1685年生まれで、ハレ(ヘンデル)、バッハ(アイゼナハ)という、車で走って190kmくらい、2時間強で行き来できる町でそれぞれ生まれた二人の大作曲家。
ヘンデルは、若くして音楽先進国イタリアに出て学び、成功を収め、ロンドンに移ってグローバルな人気、評価を得たまさに「大作曲家」だった。
それに較べバッハは、現在でいうテューリンゲン地方の町々、半径100㎞程度のエリアのみでオルガニスト、教会音楽家、宮廷音楽家として活動し、人生を終えた。
もちろん、彼の名声は人伝えにそれ以外の地方にも拡がってはいたが、あくまでも「ドイツの作曲家」に過ぎなかった。彼の評価が世界的拡がりをもったのは、彼が亡くなって100年後、19世紀中頃以降のことだ。

メディアの進化、印刷から始まって、音声、映像と進み、より容易く、より広く、多くの人に音楽を伝えることが可能になり、今では音楽はパッケージですらなくなった。
当然その現状には「功罪相半ばするものがある」と考えた方がいい、と私は思うが、世間の流れは決して変わらないだろう。
この議論をし始めたら、時間がいくらあっても足りない。

前置きが長くなったが、今回ご紹介したいソプラノ歌手は、今から100年近く前に、まだ「ダイバーシティ」「グローバリゼーション」などという言葉がなかった時代に、身をもってそれを示していたディーヴァである。

イザ・クレマー

イザ・クレマー (Isa Kremer, 1887年10月21日 - 1956年7月7日)は、帝政ロシア時代、現在ではモルドバ共和国となっているベッサラビア出身のユダヤ系ロシア人のソプラノ歌手。

ただ、ベッサラビアは言語的、文化的にはルーマニアと共通したところが多い。これはクレマーを語る上で大切なポイントだ。

クレマーは10代の時、オデッサ(ウクライナ)でまず歌手としてより詩人として知られるようになった。
イタリア・ミラノで2年間オペラを学び、1911年にクレモナでデビュー。
その後ロシアへ戻り、オデッサ、モスクワ、サンクトペテルブルクでも成功を収めた。
ロシア革命後はコンスタンティノープルで活動、その後、クレマーはポーランドとフランスを経由して、1922年にアメリカへ移住した。

アメリカに移ってからはオペラには出演せず、コンサート歌手としてのキャリアを積み始める。
そのレパートリーはクラシックにとどまらずジャンルレスで、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、ロシア語など、24の言語でそれぞれの国、地方の歌(民謡なども)を歌っていたという。
特に公の場において、東欧ユダヤ語であるイディッシュ語で歌う歌手の先駆けとなった。

レコーディングにも積極的で、1920年代にアメリカのレーベル、Brunswick(ブランズウィック)に確認できるだけでも109曲を録音している。

1938年、クレマーはアルゼンチンに移住。
左翼ナショナリズム、ポピュリズム的傾向を持った独裁者フアン・ペロン大統領とは異なるイデオロギーを持っていたが、活動を続けた。
そして、1956年にコルドバで亡くなった。
68歳だった。

ジャンルも言語も関係ない。
そこにはイザ・クレマーという強い地声と陰影、色香を持った一人の女性の「歌」があるだけだ。

音楽ジャンル

私は「音楽の『ジャンル』は後付け的なもの」と考えた方が自然だと思うし、音楽ジャンル間で貴賎を付けるような考え方には味方できない。
むしろ貴賎はジャンル間ではなく、各ジャンルの中に存在する、というのが音楽を語り、紹介する際の大前提だと思っている。
もちろん、その貴賎の区別がどういった価値観、美的意識からくるのかは、個人によって千差万別。
結局、どんな音楽に対してもある全世界不変の価値観で接し、判断することはできない、ということになる。

そうあまり難しく考える意味さえ、ないのかもしれない。

例えば、少なくとも20世紀中頃まで、オペラも歌い、ミュージカル映画にも女優として出演して歌う歌手はたくさんいた。
特にドイツ出身の歌手で、ドイツを去って(中にはチスの影響、つまり人種やイデオロギーも関係し)、アメリカへ渡り、映画女優として覚醒した人は多い。
例えば、ギッタ・アルパールミリザ・コルジャス

その逆で、元々ヨーロッパにおいて女優メインで活躍し、渡米して映画やミュージカルに出演するような人もいた。
マレーネ・ディートリヒマルタ・エゲルトがそうだ。

【ターンテーブル動画】

ボーダレスダイバーシティの先駆者、イザ・クレマー
最近彼女の10inch 78rpmを2枚手に入れたので、そんなことを考えながらそれを聴き、彼女の歌をもっと聴きたくなった。

今回、クレデンザ蓄音機にかけたのはその2枚。
1枚はイタリア語で歌われるイタリアのポピュラー・ソング。
トスティの『マレキアーレ』はR.パバロッティの十八番だった。
そして『ナポリのギター』。1923年2月頃、ニューヨークでの録音。
もう1枚はクレマーの根底に流れていたであろうルーマニア文化の結晶である民謡2曲『レレ・レレ・レリショアラ』『マンドゥリタ』。もちろんルーマニア語(ルーマニアは東欧では唯一イタリア系)で歌われている。1922年11月頃、同じくニューヨークでの録音。

「歌の力」を感じていただきたい。


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