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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #53~エーリヒ・クライバー/ベルリン・シュターツカペレ ドヴォルザーク『交響曲第9番 ホ短調 Op.95 "新世界より"(1929)

先日、ヴァーツラフ・ターリヒチェコ・フィルハーモニーによるドヴォルザーク『交響曲第8番 ト長調 Op.88』の78rpm(1935年録音)をご紹介した。

次にドヴォルザークの78rpmを取り上げるのならば『交響曲第9番 "新世界より"』か『チェロ協奏曲』かな・・・となんとなく思っていた。

また、同じく先日、クレメンス・クラウスウィーン・フィルハーモニーブラームス『ハンガリー舞曲』(1929年録音)の78rpmもご紹介した。

そして昨夜、「もしかして・・・」と思い、エーリヒ・クライバー『新世界より』の78rpmを手元に寄せてみたら、微かな記憶どおり、やはり『ハンガリー舞曲』と同じく1929年の録音だった。

というわけで今回は、エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber, 1890年8月5日 - 1956年1月27日)1929年、音楽総監督を務めていたベルリン国立歌劇場の管弦楽団、ベルリン・シュターツカペレと録音したドヴォルザークの『交響曲第9番(旧番号:第5番)ホ短調 作品95 "新世界より"』をお届け。

ウィーンを巡る指揮者たちの黄昏

これまでこの「note」で、クラウス、そしてブルーノ・ヴァルター同様、機会がある度に触れてきたクライバー。
何度も記しているように、クライバーはヴァルターオットー・クレンペラーヴィルヘルム・フルトヴェングラーの3人と1920年代の同時期、ベルリンで活躍。4人の中では一番若かったが、ポストは格で言えばベルリンで一番の国立歌劇場音楽総監督だった。

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一方、1929年にウィーン国立歌劇場総監督に就任したクラウスは、クライバーよりさらに3歳年下だった。
クライバーとクラウスは2人ともウィーン出身で、その音楽性も極めた近かった。
そして、本人たちも恐らく互いの存在を意識していた。
第二次世界大戦後、ウィーン国立歌劇場が再開される際、その総監督のポスト争いで先頭を走っていたのはクライバーと目されていた。
それに対し、クラウスは戦前最後の総監督であり、自分が再登板することは何も不思議なことではないと思いつつ、クライバー有利との報を受け、妨害工作をした、なんという話も伝わっている。
だが、結果ウィーン音楽家の頂点に立ったのはクライバーでも、クラウスでもなく、クラウスの1歳年下、カール・ベームであった。
シュターツオーパーを所轄するオーストリア文部省、つまりオーストリア政府を経済的に支援する資産家がベームのタニマチでもあったから、という権謀術数渦巻く音楽の都らしいゴシップもある。
失意のクラウスはメキシコへ客演。肥満気味で心臓が弱った彼にとって、高地にある中米の都メキシコ・シティでの指揮活動は負担が大きすぎた。
1954年5月16日、コンサートが終わり、ホテルに戻ったところでクラウスは心臓発作により急逝した。まだ61歳だった。

一方、クライバーは同じ年に古巣ベルリン国立歌劇場音楽総監督に復帰。ただ、戦前と大きく異なったのは国立歌劇場が、分裂した東西ドイツの象徴となったベルリンの東側、つまり社会主義国家となった東ドイツの首都、東ベルリンのオペラハウスになっていたことだ。
クライバーは東ドイツ政府と衝突し、1年で音楽総監督を辞任、そしてさらにその翌年、56年1月27日。モーツァルト生誕200年のまさにその日に、クラウスを追うように旅立った。
こう見てくると何だかベームのひとり勝ちのように見えるが、実はそうでもなく、ウィーンの首領となったベームは、アメリカへの客演を終え戻ってきたウィーン空港で記者の囲み取材を受けた際、「ウィーンのために自分の将来のキャリアを犠牲にするつもりはない」と、不用意な発言をし、これが波紋を呼び、結果辞任に追い込まれた。
後を継いだのはベルリン・フィルハーモニーの終身常任指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤン
帝王の世界戦略・・・。カラヤンはフルトヴェングラーに続きベルリン、ウィーンの両方を手に入れた。

話が逸れてきたついでにもう一つ、ふたつ・・・。
クラウスの生前、イギリス・デッカが彼とウィーン・フィルを起用して進めていた、彼の師でもあるリヒャルト・シュトラウスのオペラ録音シリーズ。
クラウスはまず『サロメ』を録音。続いて『ばらの騎士』と『影のない女』のレコーディングが予定されていたが、クラウスの急逝により前者はクライバー、後者はベームにお役が回ってきた。

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また1956年、ウィーン・フィルハーモニー戦後初のアメリカ・ツアーに同行が決定していたクライバーだったが、彼の死去によりその役は晩年、クナッパーツブッシュと共にウィーン・フィルが最も愛していた指揮者と言われ、クライバーよりも10歳年上のカール・シューリヒトと、アンドレ・クリュイタンスに託された。

【ターンテーブル動画】

閑話休題。
ウィーン・フィルを巡る第二次世界大戦を挟んだ、現代人を刺激してやまない指揮者たちの物語の重要登場人物のひとり、エーリッヒ・クライバーの『新世界より』。
ドイツ・オリジナルはテレフンケンだと思われるが、今までそれに出会ったことは私にはない。
私が持っているのはアメリカ・ブランズウィックのライセンス盤5枚組。
今から40年ほど、東京。神保町の富士レコード社で前に手に入れたものだ。

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以前、この録音の2年前、1927年に同じくベルリン・シュターツカペレを指揮したモーツァルト『交響曲第39番』をご紹介したことがある。

クライバーとクラウスの音楽性は似ている、といったが、細かく言えば同じウィーンの音楽様式、伝統を心得つつも、クライバーの方がほんの少し辛口=クラウスの方が少し甘口、と言えるかもしれない。
第39番でのクライバーはまさにそれだが、今回の『新世界より』は古典的様式美をベースに置きながらも、いたるところで微妙にテンポを揺らしたり、繊細さを少し犠牲にしながらも、男っぽい熱を帯びた表現を見せるところがある。ドヴォルザークの音楽がクライバーを掻き立てているかのようだ。

そう言えば、クライバーが指揮者としてデビューしたのは学んだ大学があったプラハであった。



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